卒業生訪問

2026年3月25日

同級生3人で追い求め続けるユニットのかたち | 安田康佑+塩原裕樹+中井翔太(STUDIO_C)

船場を拠点に設計やまちづくりに参画しながら、同地で自分たちもシェア型書店+カフェバー「ホトリヲ」を営むSTUDIO_C(スタジオ・シー)。
安田さん、塩原さん、中井さんは大阪市立大学の同級生で、修士のときの授業をきっかけにユニットを結成。就職後も3人で起業することをずっと目標に、本業の傍らでコンペ応募を継続してきた。


「この3人でやること」にこだわり続けてきたSTUDIO_Cに、今までとこれからの協働について話を訊いた。

STUDIO_C メイン写真

左から中井さん、安田さん、塩原さん。本町橋にて

結成のきっかけは、設計演習のチーム

――まず、3人でSTUDIO_Cを結成した経緯から教えてください。

安田 僕と塩原は大阪市立大学(当時)の建築学科、中井は環境都市工学科の同級生です。学部の頃は、建築学科の僕たちと中井は、お互いに面識があるくらいの間柄でしたね。3人とも2012年3月に学部を卒業し、そのまま大学院に進学しました。大学院では、修士1年の前期に両学科が合同で行う〈特別設計演習〉(通称〈合同演習〉)という授業があり、そこで僕たちは同じ班になったんです。それが、現在のSTUDIO_Cの原型になりました。

中井 のちに僕たちが名乗ることになる「STUDIO_C」というユニット名も、この〈合同演習〉の「C班」だったことに由来しています。こんな話をすると、当時から結束の固いグループだったように聞こえるかもしれませんが、そうでもありません(笑)。当然と言えばそうだけど、各自の考え方ややりたいことは、今も変わらずバラバラなんですよね。 

塩原 でも僕自身は、プロセスの途中では意見が違っていても、「これでいける」っていう瞬間がいつも一緒なのはずっと気持ちがいいなと思っています。それが、3人でやっていくうえで、最も信頼している部分でもある。

安田 この〈合同演習〉の課題を通して3人で考えてきたことをベースに、日本建築学会のコンペにも応募しました。敷地に選んだのは、大阪市内の木津川の護岸でした。ちょうど、現在は建築家の岩瀬諒子さんが設計した遊歩道と広場《トコトコダンダン》(2017)がある場所です。

僕と塩原は、この場所に建築と土木の融合によってどんなかたちの親水空間が生まれるのか、ばかりを考えていました。しかし中井は「では、結局それはどうやってつくるのか」に強く言及してきたんですね。まずどんな組織が必要で、周辺住民とどんな対話や協議をして、どんな制度を活用することで成立するのか……。現実的なプロセスを、一つひとつ具体的に提示してくれました。時間軸に沿って実務を伴いながら整理をしていくと、空間や表現自体もグッとリアリティを帯びてきます。建築学科の僕と塩原が今まで意識すらしていなかったことが急に表面化していく感覚があり「この3人で設計をやるのは面白いかもしれない」と強く思った経験になりました。

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〈合同演習〉での検討や議論をベースにブラッシュアップを行い、「2013年度日本建築学会設計競技」(課題=新しい建築は境界を乗り越えようとするところに現象する)に応募、入選作品となった(提供=STUDIO_C)

就職後も、3人でコンペ応募を続ける

――大学院修了後、すぐに3人での活動を開始したわけではなく、皆さんそれぞれ別の企業へ就職されています。ここからは、それでも皆さんがどのように交流を続けてきたのか、お聞きしていきます。まず、修了後の進路を教えてください。

安田 僕は2014年3月に修了し、4月から東畑建築事務所という組織設計事務所に入社して、5年ほど東京で働きました。文京施設を手がけるチームに所属し、小学校やインターナショナルスクールなどの設計をしていましたね。その後は大阪に戻り、建築家の山口陽登先生(現在、建築史・建築デザイン研究室講師)が主宰する設計事務所YAPでさらに4年ほど修行し、そして2024年に独立してSTUDIO_Cでの活動を本格的に開始します。

中井 2人と違って、僕は修了から現在も地域計画建築研究所という会社で働きながら、STUDIO_Cに参加しています。会社では、コンサルタントとしてまちづくりに係る調査・分析や計画策定、地域の伴走支援等の業務を行っています。

塩原 僕は、修士1年の後半から1年間大学を休学して、コペンハーゲンに留学をしていました。そのため、2人より1年あとに大学院を出ています。留学といっても現地の大学に通ったのではなく、ワーキングホリデーのビザを取得し、建築や家具のデザインをしている事務所で働かせてもらいました。現地ではコンペの手伝いや、小学校の校庭に遊具をつくるプロジェクトの現場監理などを経験しました。

修了後は梓設計という組織設計事務所に入社し、最初の3年は僕も東京で働きました。それから大阪支社に転勤してさらに1年働き、2019年に退職しました。その後は神戸の戎工務店という 町の工務店で設計者として4年半働き、2024年に安田と一緒に独立します。

――社会に出てからも、皆さんは継続して交流されていたのですか。

中井 就職当初は、僕と安田はそれぞれ大阪と東京で社会人1年目、塩原は大学院で修士2年と、全員バラバラな環境で忙しかったこともあり、ほぼ会えなかったんですよね。

塩原 まだ大学院に残っていた僕は、一人で大阪市立大学の旧南食堂の改修案(2014)を考えていました。これは、たまたま僕が大学の施設管理課の方と親しくなったことから始まったプロジェクトです。その職員さんから「南食堂の改修を課内で提案したいから、賛同を得られるようにイメージパースを描いてほしい」と相談を受けたんです。そこから絵を描き、模型の制作もして、施設管理課へ提案をしました。

この提案は実現には至らないまま、僕は大学院を出て東京で就職しました。しかしそれからも、職員さんとは実現を目指して連絡を取り合い続けていたんです。都内で仕事をしながら、に1回ほど安田と新宿3丁目のカフェで集まり、改修案の検討を続けていました。

安田 仕事になる見込みは薄いのに、無理矢理そんなことを2人で続けていましたね。今思えばクオリティも疑問ですが、一緒に取り組み続けることに強い意味を感じていたのだと思います。きっと当時から、3人で独立したい気持ちが心のどこかにあったんでしょうね。

STUDIO_C事務所内

当時のプレゼン資料を振り返りながら、お話をうかがった

コンペ応募を続けたことが独立につながる

――そこから皆さんが再度集まった時期やきっかけを教えてください。そして独立へと向かうまでにはどんな出来事がありましたか。

塩原 2018年に大阪に転勤で帰ってから、僕は中井とたまに会うようになりました。翌年に安田が転職して大阪に戻り、3人が大阪で揃ったことで、活動が活発になったと思います。

安田 それに僕が帰阪するまでの期間も、年に1度は一緒にコンペに応募していました。当時はスカイプでリモート会議をしながら、提案をまとめていましたね。箸にも棒にもかからなかったけれど、それでも続けていました。「大阪で直接会って集まれるようになれば、もっとやりやすくなるな」という話もしていたように思います。

中井 大阪で集まるようになって初めて応募したコンペは、阪急神戸三宮駅前の「さんきたアモーレ広場」のデザインコンペ(2019)でしたね。

塩原 この次が「ワクワクする船場のこれから提案コンペ」(2019)です。

――すでに当時から、住宅など具体的な建築の設計競技ではなく、広場やまちづくりを提案するようなコンペを選んで応募されていた、ということでしょうか。

安田 せっかくなら、アイデアコンペよりも実施コンペに時間を割きたい気持ちはありました。でもこの船場のコンペは、実施型とはいえ、建築ではなくソフトを求めるものでした。それは僕と塩原にとっては初めての経験でしたが、あえて課題を読みかえてハードを提案するようなことはしなかった。それは社会人を経験したことで、いかに建築をつくることが大変かを思い知ったからです。すでにたくさんの建物や構造物であふれている船場で、さらに何か新しい建物をつくることでワクワクが創出されるなんて、まったくリアリティがないように感じました。

塩原 結果的に、僕たちはこのコンペで優秀賞をいただくことができました。初めて名刺を作り、「妄想を現実に」という僕たちのキャッチコピーを書いたのも、このときです。設計事務所を名乗るにはまだあまりに実績がなかったけれど、どうにか体裁だけでも整えたくて(笑)。でもこれを機に、僕たちは船場のまちづくりに関わっていくようになり、他の皆さんにもこの3人がSTUDIO_Cだと認知してもらえるようになりました。

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     船場のコンペの応募案「船場コンシェルジュ~出会いで紡ぐ船場ブランド~」(https://sembacompe.net/#prize)(提供=STUDIO_C)

STUDIO_C、ついに本格始動

――船場との関わりができたことも後押しとなり、2023年、ついに安田さんがひと足先に独立し、その後塩原さん、中井さんが続いて参画されます。STUDIO_Cが本格的に事業の組織となって、どのような仕事に取り組まれましたか。印象的だったものを教えてください。

塩原 「JR畝傍駅の駅舎及び駅周辺の活用に関する提案募集」(2024)は、僕たちにとって大きな仕事となります。この当時も相変わらずコンペは続けていて、これはまだ独立したのが安田だけだった頃に応募したものです。

奈良県橿原市にあるJR畝傍駅舎は、昭和15(1940)年に完成した社寺風の木造建築で、かつて天皇陛下の橿原神宮参拝のためにつくられた貴賓室が残る、貴重な建物です。この駅舎は、 2017年度にJR西日本から橿原市に譲渡が提案されましたが、市はそれをうまく活用できないまま、後年になって駅舎の解体を決定します。しかしこれに対し、地元団体が保全・活用を求め、署名活動と併行して駅舎跡の活用アイデアを募っていたんです。ご縁があって、僕たちも案を提出しました。それが2023年のことでした。

これら地元の活動成果やアフターコロナの社会経済状況の変化などもあり、2024年8月、橿原市が方向転換して旧駅舎を残すことになり、運営事業者が公募されることになったんです。そこで、協働できる事業者を探し、1年前に出した活用アイデアをブラッシュアップして運用案を提出したところ、僕たちの提案が選定されました。選定以降の1年間は、橿原市とも事業化に向けた協議を続けてきました。そしてまさに、これから実施設計が始まります。

畝傍

「JR畝傍駅の駅舎及び駅周辺の活用に関する提案」のプレゼンシート。駅舎単体にとどまらず、沿線地域のまちづくりも含めた提案内容となっている。2026年度に設計を終え、2028年秋頃の開業を目指す(提供=STUDIO_C)

――この提案もそうですが、昨今は建築提案のコンペであっても、事業計画をセットで提案するよう求められる場合があります。お話を聞いていると、こうした持続的な運営提案を担うのは中井さんだと思うのですが、収支計画の立て方などは、実務で学ばれたのでしょうか。

中井 どうでしょうか。僕は、普段はコンペの発注事務支援をしています。そのため、発注側のスキームはある程度理解していると思います。ただ、収益事業の計画なんかは、やはりいろいろ手探りでやっているように思いますね。

安田 僕たちは、誰も事業計画を前職で学んだわけではないんです。でも、今まで話してきたように、やっぱり建築をつくるだけじゃ面白くないし、持続性を高めるためにも設計だけでは厳しいし、やっていけるかなという危機感を常にいだいている。建築のかたちだけを提案するようなプロポーザルの仕組みやあり方にも、今となっては疑問を持っているんですね。もっと川上に関わっていかないと自分たちの存続も危ういし、世の中自体も良くならないんじゃないか……。

そんな思いがあったうえで、じゃあどうするかというときに、設計だけやっているのではなく、 なんとか自分たちができることを広げていき、川上の部分にアプローチしようと思っている。 やっぱり主体的でいたいし、大事な決定にも関わっていきたいですから。それがうまく提案の かたちになったのが、この提案だったように思います。

――続いて、2025年春に東横堀川に開設したシェア型書店+カフェ&バー「ホトリヲ」についても、教えてください。

安田 大阪市内で現存する最古の堀川である東横堀川には、現在、護岸の耐震補強工事に伴って、川沿いに遊歩道などの水辺空間の整備が進められています。その遊歩道沿いにある元写真スタジオをリノベーションし、STUDIO_Cのオフィスと、コミュニティ拠点としてのシェア型書店・カフェ&バーの「ホトリヲ」という場をつくりました。

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(上)ホトリヲでのイベント風景。40㎡の小さな複合施設となっている。(下)ホトリヲ付近の東横堀川の風景。さまざまな時代、スケール、素材が混じり合う(ともに撮影=東郷憲志、提供=STUDIO_C)

安田 本棚やカウンターなどの必要機能を家具的に付加してくことで、既存を活かした空間としました。本屋になったのは、周辺のまちづくりを一緒にやっている中央復建コンサルタンツさんの提案でした。普通のブックカフェではなくシェア型としたのは、ホトリヲやこのエリアに長く関わってくれる人を増やすためです。カフェも含めてこの場所の運営を僕たちが担うことになったのですが、アパートを経営する大家のような感覚で、棚主さんが増え、この場所で活動をともにしてくれることはとても嬉しく、このまちの一員として日々発見があります。

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「ホトリヲ」のシェア本棚。現在は70人ほどの棚主がいる。

塩原 設計事務所がこうした店舗を持ったことで、僕が経験して本当に嬉しかったのは、やっぱり常連さんができたことですね。こうしたお付き合いの機会は、設計事務所の運営だけではなかなか得られないものです。

安田 この船場エリアの今後を考える地元の協議会に「『ホトリヲさん』も入ってください」と、「地域の事業者として」声がかかったことも嬉しかったですね。まちづくりにおいて当事者になれたのは、これが初めてだったし、僕たちにとっても大事な経験になっています。

塩原 自分たちが商いをしている場所を自分たちで良くしようというのは、動機として自然だし、理にかなっていますよね。設計業だけを営んでいたら、こんなふうに関われなかったかもしれません。当事者であるからこそ、生まれた親近感や関係性によるものだと思います。

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「ホトリヲ」の断面図。道路と川沿いの遊歩道の間にある、地下1階とは思えない開放感のある空間。高速道路下のこの遊歩道の空間は、やや暗くて閉塞感もあるが、通り抜けもでき、遊歩道から建物の最奥まで見通すことができる構成で、可能な限り視線の抜けと安心感を確保した(提供=STUDIO_C)

「大阪的」な組織でありたい

――STUDIO_Cはコンセプトやスキーム提案、設計だけを請け負うのではなく、かたや自ら当事者にもなってまちに溶け込むことで、提案側と地元側を地続きで体現するような試みを実践されています。最後に、皆さんが目指す組織像や今後やっていきたいことをお聞かせください。

安田 泥臭いというか、足で稼ぐというか。「大阪的」なんだと思います。もちろん、僕たちもかっこいい建築をつくりたいし、そんなグループでもありたい。でもそれ以上に、人に頼られたい気持ちが強いんですね。「あいつら、この前の地域イベントにもいたし、他の場所でも顔を見たことがあるな」という日常の延長の関係性から、「ちょっと助けてくれん?」という感じで仕事になっていくことや、街の役割の一部のようになっていくことが、僕たちの性に合っている感覚があります。

塩原 僕は現実的だけど、やっぱり設計だけでは食っていけない、という問題意識も強かったように思います。この3人のうち、最も設計が好きなのが僕であることは間違いありません(笑)。正直にいえば、建築設計への情熱と比べれば、最初の頃はまちづくりへの関心は低かったように思います。でも、そんな僕だからこそ身に染みているんですよね。設計をやりたくて仕方がなくても、設計の仕事はやっぱりそんなに簡単にはもらえませんから。自分が設計に携わらせてもらうためには、その周辺にあるさまざまな仕事の中でも信頼を獲得していくことが大事なんだと、今では心から思えています。中井が本当にいつも言うのが「設計は1フェーズであって、事業のゴールではない」と(笑)。

中井 建築家(アーキテクト)って、職能を狭く捉えがちだと思うんです。僕は学生の頃、全知全能になりたかった(笑)。設計もできるし、都市計画もランドスケープもできるような人になりたかった。けれども、当然それは難しい。それに、塩原が言ったように、多分お互いにやりたいことが別にあるけれど、相手のやりたいことには共感しているし、それでもSTUDIO_Cというチームじゃないと目指せないようなものがきっとあるんだろうな、ということにも、おそらく3人とも気づいているんですよね。

まだ僕たちは事業体としては結成して間もないし、個人で目指したいことと、3人で目指したいことが何かは、まだ今は明確に言えないところがもどかしいけれど、3人でそれを探しながらつ くっている段階なんだと思います。

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安田康佑 やすだ・こうすけ(写真中)

1988年岐阜県生まれ。2012年大阪市立大学工学部建築学科卒業。2014年大阪市立大学大学 院工学研究科都市系専攻(建築計画研究室)修了。同年~2018年東畑建築事務所。2019年~2023年YAP。2024年株式会社STUDIO_Cを正式に設立。

塩原裕樹 しおはら・ゆうき(写真右)

1989年広島県生まれ。2012年大阪市立大学工学部建築学科卒業。2015年大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻(建築デザイン・歴史研究室)修了。同年~2019年梓設計。2019年~2024年戎工務店。2024年に株式会社STUDIO_Cに参画。

中井翔太 なかい・しょうた(写真左)

1988年奈良県生まれ。2012年大阪市立大学工学部環境都市工学科卒業。2014年大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻(都市計画研究室)修了。同年~地域計画建築研究所。2024年に株式会社STUDIO_Cに参画。

STUDIO_C(スタジオ・シー)

WEBサイト 

 https://studioc-uaa.com/

インスタグラム 

 @studio_c_uaa

2025年01月06日+2026年2月19日 大阪公立大学都市計画研究室およびSTUDIO_C事務所にて
聞き手/柴田美玖(建築学科4年)、久嶋はるひ(建築学科4年)、伊藤舞織(建築学科3年)、吉原涼花(建築学科3年)、三昌珠海(建築学科3年)、西野雄一郎(建築計画・構法研究室講師)
まとめ/柴田美玖、久嶋はるひ
写真/西野雄一郎
編集協力/贄川 雪(外部)

※学年は取材当時