卒業生訪問

2023年4月14日

同級生同士で住宅建築を手がける|中山大介(建築家)、笠松義紀(大工)

中山大介さんと笠松義紀さんは、学部の4年間、大阪市立大学建築学科で共に学んだ。
大学卒業後もずっと親交を深め続け、ある仕事を機に、なんと二人同時に勤務先を辞めてそれぞれ独立された。
それからは、中山さんが建築家、笠松さんが大工として、多くの住宅を協働して手がけている。
共作の一つである《船岡山の家》を訪問し、お施主様も交えながら、お二人の学生時代から現在にいたるまで、話を聞いた。

トップ画

《船岡山の家》の居間で談笑する中山さん(左)と笠松さん(右)。

建築との出会い

――まず、建築の道を志したきっかけをお聞かせください。

笠松 僕は、大学に入る前から建築の道を目指していた。小さい頃から大工さんや建物に興味があって、あとはテレビの影響かな。ドラマの中で建築家がドラフターで図面を描いているのを見て、そういうのかっこいいなぁって憧れていた。それに、高校生ぐらいのときに、建築家の安藤忠雄さんがテレビで紹介されるようになって、さらに建築への興味を持ちましたね。

中山は高校のとき、女の子から「建築がかっこいい」って言われたからやんな(笑)。

中山 そう(笑)。僕は、工学部ならどの学科でもよかった。それで、たまたま高校で進路を悩んでいるとき、同級生に「建築がかっこいい」と背中を押されたこともあって、建築学科を目指しました(笑)。だから建築を本当の意味で志したのは、建築学科に入ってからですね。

大学に入る時点では、別にやりたいことがなくてもいいんじゃないかな。入学してから何をやっていくのかを決めてもいいと思います。

笠松 僕も、入学当初は大工を目指そうとはしてなかったなぁ。でも、設計演習の製図練習のときに、担当の先生から「将来、何になるんや?」と聞かれて、「元々は大工になりたかった」って答えた。そしたら「じゃあ大工になったらいい」って言われて。それから大工になることを考えるようになった。

学部の卒業式のときにも「大工になりたい」と話したら、当時講師だった中谷礼仁先生(現在は早稲田大学教授)も「大工になれ」と後押ししてくれた。それから、中谷先生が当時手がけていた長屋の改修や、講師を務められていた「灰塚アースワークプロジェクト」に参加させてもらうようになって、建築を作る楽しさに気づき、大工を目指すようになったかな。

学生時代の取り組み

――大学時代のお互いの印象をお聞かせください。

中山 笠松さんは、今のまんまですね。建築学科の同級生が将来大工になるなんて、あまり思わないじゃないですか。でも、当時からめっちゃ大工っぽいというか、大工の親方的な雰囲気はありましたね。みんなからも、そう言われてたと思う(笑)。

笠松 中山は、変わってるなぁって感じ(笑)。マイペースやった。でも設計はやっぱり上手くて、自分との差を感じたかな。そういう消極的な意味でも、俺は設計には向いていないし、大工になろうと思った。

――卒業論文や卒業設計は、どのような内容に取り組まれましたか。

笠松 卒業設計では、路上生活者の家を設計しました。当時、僕は西成区の三角公園(萩之茶屋南公園)周辺や、いわゆる「軍艦アパート」(当時、大阪市浪速区にあった公営住宅)によく行っていましたね。バラックや仮設建築など、有機的で制御できないようなものに興味があり、そういうものを誘発していくというストーリーで設計をしました。

中山 僕は、卒業論文では、海外文献の翻訳と考察をしました。当時、アメリカの建築家のジョン・ヘイダックの本に興味があることを、指導教官だった杉山茂一先生(現在は退官)に話したら「翻訳してみたら?」と応援してくださった。

卒業設計は……(苦笑)。当時は、ただ敷地を決め、用途を定めた建物を建てるというのが自分らしくないと思っていて、何か違うアプローチで建築に向き合うことができないかと考えていました。そこで、好きだった美術からいろいろ吸収していく中でたどり着いたのが、ピンホールカメラみたいなものでした。真っ暗な箱の中に小さな穴を空けると、箱の中に外の景色が映り込むんです。それで僕は、人が入れるくらいの大きさの箱に小さい穴をあけ、その箱をキャスターで動かすことで、中の景色が変化するという作品を提出しました。タイトルは、フランスの哲学者ロラン・バルトの本からとって『明るい部屋』に(笑)。

今思えば、建築の開口部について、窓によって切り取られた風景が写真に見えたり、映画館のスクリーンに見えたり、そうしたことに興味があったのだと思います。それを素直に建築で表現するのではなくて、もう少し原理的なことを探求したかった。笠松さんが言うとおり、やっぱり変わってたのかもね(笑)。

二人で同時に独立する

――学部の4年間の後、笠松さんは大阪市立大学の大学院へ、中山さんは学外の大学院へ進学し、それぞれ別の場所で研究をされました。その後、大学院を修了して就職し、独立して協働にいたるまでの流れをお聞かせください。

笠松 大学卒業後も、定期的に会う友達でした。

でもじつは、僕の中では「いつか中山と一緒に仕事をしたいな」って、ずっと思っていた。大学院の修了後、中山は設計事務所に就職し、僕は大工に弟子入りしたので、最初は中山が勤務している設計事務所から、僕の親方が仕事を請けて一緒にやる、というのでもよかった。結局、それは実現しなかったけど。

それとは別に「いずれ独立したい」という想いもあった。そんなとき(2010年頃)に、高校の同級生から家を建てたいと相談をもらった。絶好のチャンスとばかりにそれを捕まえて、中山に「お互いに独立して一緒にやらないか」と持ちかけました。そのときは、とにかく勢いが先行していて、今後も互いに独立しながら仕事を一緒にやっていけるかまでは、考えがいたってなかったんやけど……。でも結論としては、二人とも独立しました。

中山 本当に、この話だけを頼りに、ね(笑)。

笠松 独立の腹づもりがあったから、仕事がないか、ずっとアンテナを張ってた。相談してくれたのは、僕が仲がよかった同級生で、僕たちのやりたいことも理解してくれたし、第一歩目としてはすごくありがたい仕事やったな。それが《斑鳩の家》(2012)。

斑鳩の家外観

《斑鳩の家》(2012)。瓦屋根や漆喰壁などの伝統的で身近な素材を使用し、周囲の景観にもなじんでいる。

中山 何もかもが初めてだったので、設計のプロセスの一つひとつが印象深い。もちろんどの作品もそれぞれに思い入れがあるけれど、《斑鳩の家》はもう一回やってもいいかなって思える。普通は「もう一回最初から設計して」って言われても大変だし、正直やりたくないでしょ? でも僕は《斑鳩の家》はもう一回経験してもいいかなって思える。設計の現場での決断をすべて自分の責任でできることの楽しさを知りました。それまで溜め込んでいたやりたかったことを解放できた感覚が新鮮でした。

《船岡山の家》にかけた想い

――今日は、お施主様のご協力のもと、中山さんと笠松さんが協働された《船岡山の家》 (2018)で取材をさせていただいています。お施主様にお尋ねしますが、お二人にご依頼をされた経緯をお聞かせください。

お施主様(夫) 私の知人が、中山さんの大学院の同期なんです。その彼が、中山さんの作品《伏見の家》(2016)を見学して、そのときの写真を私に送ってくれました。それがとても素敵だったので、今度は私が妻に写真を見せ、二人で話していくうちに「これはいいなぁ」となりまして。

伏見の家外観

《伏見の家》(2016)。外壁は焼杉板張り。室内はスキップフロアで構成され、空間がゆるやかにつながる。

お施主様(妻) 《伏見の家》の写真を拝見して、直感的に「この人とは気が合う!」と思いました。中山さんにお任せしたら、絶対に気に入るお家ができると確信したんです。それで、中山さんに自宅の設計をお願いしました。「自由にやってください。中山さんが本当にやってみたかったことを、ここで実現してもらったらいいですよ」と。そして「最終目標は建築雑誌に載るようなお家を建てましょう」って(笑)。

中山 すごくプレッシャーのかかる要望が(笑)。でも、そんなふうに任せてもらえたから、面白いことができたと思いますね。

笠松 すごいよね(笑)。初めて会ったときに、そこまでおっしゃってもらえるなんて。

――《船岡山の家》を設計する上で工夫された点をお聞かせください。

中山 高低差の大きな敷地を生かして、山を登っている感じのプランにしたいと思いました。

また実務的なことですが、この地域は法律が厳しい。自然が豊かで、近隣に寺社などの歴史的建造物が多く残るこの地域は「風致地区」に指定され、かつ京都市の大部分は「準防火地域」に指定されています。そのため、建築物の高さや建蔽(けんぺい)率、使用する建材などに制限がかかるんです。それらを全部解決するのが、すごく大変でした。

例えば、この地域の風致地区条例では、新築の建築物の1階部分に庇を設けることが義務づけられています。でも規制があるから仕方なく設けるんじゃなくて、「規制がなかったとしても、こう設計しています」と言えるくらいの説得力を持たせられるよう、スタディを重ねました。

船岡山外観

《船岡山の家》(2018)。船岡山の裾野にある、高低差が大きな敷地に立つ。その特徴を生かした空間づくりと、地域地区による制限のクリアを両立させている。

――《船岡山の家》でお二人が気に入られているポイントはありますか。

笠松 僕は、フロアが全部連続的につながっているところが一番好きかな。間仕切りや建具が全然なく、段差で空間が仕切られているんだけど、開放的ながらも場所ごとの気持ち良さがある。《伏見の家》でも同様にスキップフロアが採用されているけど、《船岡山の家》は地形のおかげでよりそのデザインに説得力が増したなぁと感じた。

船岡山スキップ

『《船岡山の家》の食堂から2階のテラスと居間を見る。各室が連続的につながる。

中山 僕は2階のテラスが好きかな。「中間領域」という言葉があるじゃないですか。そういった、外でもなく中でもない空間が住宅にどんなふうに寄与するのか、関心があります。

船岡山テラス

              《船岡山の家》のテラス

公大の建築学生たちに向けて

――仕事の中で、大学での学びが生かされていると感じる部分はありますか。

笠松 言葉がちょっと悪いけど、「不真面目さ」じゃないかな(笑)。大学のカリキュラムどおりの大真面目なことばかりをやっていても多分ダメで、ちょっと脱線していたり、遊びの部分があったりするプロジェクトをやらせてもらった経験が、社会に出てみると、とても大事なことだったと思う。学生時代に自由にやらせてもらえたからこそ、視野が広まった気がします。

中山 大学だからといって、アカデミックなことをしていたわけではなかったよね(笑)。それに、学外の方々からの学びも多かった。例えば設計演習では、非常勤講師としてさまざまな建築家や先生が教えに来られていて、学外の人や多様な考え方ともつながっていくことができた気がする。そういった出合いが、今の仕事にも生かされてると思います。

――後輩である公大の建築学生たちへメッセージをお願いします。

笠松 みんなにも、大工さんになってほしいなぁ(笑)。

中山 「大工という道もある」ということを、笠松さんが自ら示していますよね。おすすめだよね、大工さん。そういう流れが公立大学にできたら、すごくいいと思う。

実際、大工にもいろいろなキャリアの人がいて、若いときから大工をやっている人もいると思うけど、大学院を出てから大工になってみてどうだった?

笠松 技術職だから、実務をやっていると「大工になるなら早いほうがええかなぁ」「中学を卒業してすぐに弟子入りしたらよかったなぁ」と思うときもやっぱりあるけど、大学や大学院に行ったからこそ、中山を含めた貴重な出会いがあったし。

あとは、別に独立をすすめるわけじゃないんやけど、若いみんなには、就職ありきじゃなくて、自分の中にあるやりたいことを、自分の意思で行動して叶えていってほしいかな。

中山さんプロ画

中山大介 なかやま・だいすけ

1978年島根県生まれ。2001年大阪市立大学工学部建築学科卒業(建築計画研究室)。2003年京都府立大学大学院生活環境科学専攻修了(建築意匠学研究室)。 設計事務所での勤務を経て、2010年中山建築設計事務所設立。
主な設計作品に、《斑鳩の家》(2012)、《山陵の家》(2015)、《伏見の家》(2016)、《船岡山の家》(2018)(以上、すべて笠松さんの施工による)、《奥出雲の家》(2021)、《鶴岡の家》(2021)などがある。
趣味はカメラ、影響を受けた建築家は内藤 廣、堀部安嗣。

中山建築設計事務所
https://nakayama-architect.jp/

インスタグラム
https://www.instagram.com/nakayama_architect_works/

笠松さんプロ画

笠松義紀 かさまつ・よしのり

1977年大阪府堺市生まれ。2001年大阪市立大学工学部建築学科卒業(建築計画研究室)。2003年大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻修了(建築計画研究室)。大工見習いを経て、2011年杢工舎設立。
施工を手がけた作品に、《斑鳩の家》(2012)、《山陵の家》(2015)、 《伏見の家》(2016)、《船岡山の家》(2018)。(以上、すべて中山さんの設計による)、《最小限住宅No.32再生》(2017)、《みんか2020》(2020)などがある
趣味は日曜大工、影響を受けた建築家は高須賀 晋。

インスタグラム
https://www.instagram.com/mokukousya/

2023年02月13日 《船岡山の家》にて
聞き手/神田昂奎(都市計画研究室修士1年)、渡邊めぐみ(建築計画・構法研究室修士1年)、西野雄一郎(建築計画・構法研究室講師)
まとめ/神田昂奎
人物写真/西野雄一郎
編集協力/贄川 雪(外部)