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海外から伝えられる様々なニュースに接するとき、人権という言葉を聞かない日はないでしょう。紛争がもたらす凄惨な暴力や飢餓、貧困等の悲惨な現実を知れば、日本国内の人権状況は、緊急の対処を必要とするような深刻な状態ではないと考えられがちです。しかし、国内でも生命や身体の安全に関わる重大な侵害や様々な形態による人権問題が存在しています。その中には一見すると人権に関わるようには見えず、侵害に気づかない人が知らずに加担するケースもあります。多様性の尊重を促す方向にはたらいてしかるべき国際化の進展が、複雑で複層的な新たな差別を生んだり、本来、人の生活を便利にするために開発された科学技術の成果が、人権侵害の道具とされたりする事態も生じており、人権をとりまく状況を正確に知り、適切に対応することが求められています。 こうした事態を正しく把握し適切に対応しようにも、人権の問題は難しくて自分とは縁遠い、人権に関する専門知識がなければおいそれと近づけない、と思うかもしれません。しかし、すべての人が享受する人権の問題は普遍的で、個別の人権の問題は誰にとっても身近なものです。この個別の問題には専門家ですら気づくことができないことがあり、一人一人が人権について感受性を研ぎ澄ませることを求められるのです。何故、専門家でも人権の問題に気づけないのか。それは、人権侵害が生まれる背景やメカニズムと深く関わっています。
人権侵害の背景―差別はどのように生まれるか?
人権侵害の典型例である差別を例にとって考えましょう。差別される側に立たないと、その存在に気づくことは、実は難しいのです。特に、社会の多数にとって都合のよい仕組みが既に出来上がり、当然視されている場合には、少数者がそれに対して異を唱えることは決して歓迎されるものではありません。性別、国籍、出身、障がいの有無等の属性や特性ゆえの偏見は、放っておいても自然に是正されることは望めません。「差別されている」と、その不当性を自ら訴えない限り既存の体制を変えることはできないでしょう。 差別の現れ方は、必ずしも単純ではありません。アメリカ合衆国で、税制控除の措置を争う裁判がありました(Charles E. Moritz v. Commissioner of Internal Revenue, 469 F.2d 466 (1972) )。訴えを起こしたのは、母親の介護をしながら働く男性です。介護のためのヘルパーを依頼しようとしたものの、彼は、税制上の優遇措置を受けられなかったのです。というのも、当時の所得税に関する法規定は、「介護に関する所得控除は、女性、妻と死別した男性、離婚した男性、妻が障害を抱えている男性、妻が入院している男性に限られる」と定め、独身の男性はその対象から外されていたからです。家族の介護に従事するのは女性が多いことを前提とする社会の仕組みが、男性の介護者の存在を見えにくくし、差別の解消を難しくしていたのです。 以上のような不可視性という差別の特徴を考えれば、いかに専門家であっても、立場を変えて事態を仔細に観察しなければ、差別の実態を解明できないことは明らかです。差別に最初に気づくのは、「同じ立場であるはずなのに不利益を甘受しなければならない」という現実に直面する人です。しかし、多数者は、そこに不均衡があることを認めません。差別の問題を克服するには、この不均衡を本来の形に戻すことが必須です。既存の状況を、ごく当たり前のものと受け入れつつ、差別された他者の状態をただ憐れみ、思いやりの心から、単に恩恵を与えることで十分というのでは、抜本的な解決にはなりません。
制度化された不可視性
人の自由は最も重要な人権の一つです。しかし、その自由を奪い、不利益な取扱いをすることが、権力によって制度化されることがあります。刑事司法制度はその例です。人の自由を制限する制度は、社会の秩序を守る目的に応じる限り必要と考えられる一方で、その行き過ぎや誤った運用による人権侵害は見過ごされやすく、公権力による人権侵害があると訴えることは、一層難しくなります。法律に違反し、刑罰を受けなければならない人の権利を擁護することは、しばしば事件の被害者をはじめ、他者の利益を損ねているかのように受け取られてしまうことがあるのです。しかし、刑事司法制度の下に置かれた人が、不適切な取扱いを受けないよう人権を保障することと、犯罪の被害からの回復をはかることとは、同一平面上の交換的な関係に立つものではありません。制度上必要な限界を超える自由の制限が、権力の作用や社会にまん延する通念によって見えにくくなるときこそ「切り札」としての人権が威力を発揮すべき場面です。悪事を行ったと疑われる人は、しばしば無慈悲で無遠慮な攻撃にさらされ、必要な支援を受けられない状況に陥るリスクがありますが、人権を尊重する社会は、それを許してはなりません。むしろ自由を奪われ、無力な人の人権を擁護することは、手続の適正を保障して司法制度の本来の機能としての公正な裁判を実現し、ひいては犯罪の被害を受けた者にも正義を取り戻すことにつながると言えます。 人は誰もが個人として尊重され、かつ平等に権利を行使することができなければなりません。しかし、現行の制度が何のためにあるかを考えず、当然のものと受け入れてしまうと、属性や特性を考慮した合理的な区別の取扱いも「ズルい」と思われ、これに対し無理に形式的な対応をしようとすれば、かえって悪平等となり、制度の趣旨が無になることさえあります。刑罰制度は、自分の理性に従い善悪の判断により自己の行動を責任に基づいて制御できる者に対し、罰という不利益を与えることを予告して、他者への権利侵害をやめさせようとする法制度です。従って、自ら判断ができない者、自分の行動を制御できない者には処罰を科することは本来予定されていないのです。法の世界では、「責任主義」と呼ばれるこの原則に反し、自分ではどうすることもできない悪い結果についても罰を受けよと主張する考え方自体が誤っていることは言うまでもありませんが、平等な取扱いを徹底するために障がいがあっても処罰すべきだという意見に至っては、本末転倒と言えるでしょう。しかし、実際、このような考えは、決してめずらしいものではありません。 2013(平成25)年、精神科の治療を受けている運転者が起こした死傷事故をきっかけに、正常な運転に支障を及ぼすおそれのある病気に罹患している者が、その病気、症状の影響により、走行中に正常な運転に支障が生じるおそれがある状態で自動車を運転し、その病気の影響によって正常な運転が困難な状態に陥って人を死傷させた場合には重く処罰されるという規定が設けられました。この規定新設にあたっては、日本てんかん協会が、事故の死亡者や遺族に対する哀悼の意を示しつつ、あるべき運転免許制度や処罰のあり方を論じるとともに病名差別がなされることのないよう繰り返し慎重な審議を求める等の意見を出してきたことは注目に値します(てんかんと自動車運転に関する資料については、同協会ウェブサイト2026年1月時点のもの参照。https://www.jea-net.jp/epilepsy/drive)。本人にはどうすることもできない病気や障がいを直接の理由として処罰されることは理不尽であり、また、その特性が不用意に危険視されることがないよう注意喚起する、当事者の立場にならなければ見過ごされてしまう視点からの重要なメッセージと言えます。
人権教育、啓発の重要性
多様な人権侵害の現象や対処のあり方を、立場や世代を超えて共有するのに有効なのは、人権教育・啓発です。国連では、1995年から始められた人権教育プロジェクトの一環として、「人権教育のための世界プログラム(計画)」が進められ、子どもや若者が人権擁護のために行動を起こせるよう実践的な教育が目指されています。既にプロジェクトは第5段階まで進み、デジタルテクノロジーや環境・気候変動、ジェンダー平等の三項目を重点課題として取組みが進められています。他方、日本では、2025年、人権教育・啓発に関する基本計画(第二次)が閣議決定されました。従来から取り組まれている諸課題に加え、特に社会情勢の変化を受けて見直された項目は、ビジネスと人権に関する記載の追加、インターネット上の人権侵害への包括的な対応、ヘイトスピーチ、性的マイノリティ等への取組みです。人権問題が問われる場面の多様化複雑化について理解し、インターネットの不適切な利用が人権問題となりうることを認識することは、現代に生きる私たちの課題です。今何をなすべきか、他者と意見をかわしながら解決を模索する第一歩は、人権ってなに?と真剣に問うことでしょう。
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