Chapter7 メディアと人権

メディアと人権—芸術の自由の観点から

吉田 隆之(大阪公立大学都市経営学研究科教授)

1.はじめに

 「メディア」と「人権」という2つの言葉を並べると、まず思い浮かぶのは新聞やテレビなどの報道機関だろう。報道の自由は、表現の自由の根幹であり、権力を監視し、市民に情報を届ける役割を担う。国際NGO「国境なき記者団」の報告によれば、日本の「報道の自由度ランキング」は先進国の中で下位にとどまっており、記者クラブ制度や自己検閲が問題視されている。報道の自由が揺らぐとき、人権保障の基盤も危うくなる。
 近年、アメリカのトランプ政権下では、報道機関だけでなく、大学などの学術機関や、美術館・劇場といった芸術機関にも強い圧力が加えられた。批判的な記事を「フェイクニュース」と決めつける態度、研究や展示への介入は、いずれも「権力批判を許さない」という姿勢の表れである。ここには、報道の自由、学問の自由、芸術の自由という三つの自由が相互に脅かされている構図が見てとれる。

 

2.芸術は「メディア」でもある

 ここで改めて「メディア」という言葉の意味を考えてみたい。一般には「新聞」「テレビ」「インターネット」といった報道機関を指すが、本来の意味は「媒介するもの」「伝えるための手段」である。そう考えると、芸術もまた立派なメディアなのだ。
 絵画や音楽、演劇や映画は、アーティストの思いや問題意識を社会に伝える媒介である。たとえば、映画『もののけ姫』は自然と人間の関係をめぐる環境問題を描き、ヒップホップは差別や社会的不公正への抵抗の声を響かせてきた。作品を通して私たちは「社会の別の見方」に出会う。新聞記事が「事実を伝えるメディア」であるなら、芸術作品は「感情や価値観を伝えるメディア」といえる。
 この意味で、芸術の自由を守ることは、報道の自由を守ることと同じく、人権を守る営みにつながっている。

 

3.芸術の自由と人権

 日本における典型的な事例が、2019年の「あいちトリエンナーレ2019」である。「表現の不自由展・その後」では、戦争責任や従軍慰安婦問題、天皇制を扱った作品が展示されたが、抗議電話や脅迫により展示が一時中止に追い込まれた。政治性・社会性の強い表現が「不適切」とされ、物理的・心理的圧力によって表現の場が閉ざされたのである。この事態は、芸術の自由が「不快だから」という理由で容易に制限されうる現実を示した。
 一方、2022年のドクメンタ15(ドイツ・カッセル)では、反ユダヤ的とされる作品展示が問題化した。人種差別的表現は許されない。しかし、イスラエル批判と反ユダヤ主義的表現が区別されないまま、イスラエル批判そのものを封じ込める動きが広がった。ここでも「差別化か批判か」という境界が揺らぎ、芸術の自由と人権保障との間に緊張が走った。

 

4.国際芸術祭「あいち2025」と新たな潮流

 2025年、国際芸術祭「あいち2025」が開催された。芸術監督を務めたのは、アラブ首長国連邦出身のフール・アル・カシミだった。彼女は中東最大級のシャルジャ・ビエンナーレを率い、2023年にはその芸術監督を務めた実績をもつ。中東出身の監督によるキュレーションは、ヨーロッパ中心のアートワールドに対抗し、グローバルサウスや脱植民地主義の視点が、随所にみられた。
 「あいち2025」のテーマは「灰と薔薇のあいまに」である。「灰」と「薔薇」という二項対立を超え、複雑な現実の中から希望を探る姿勢が示されている。カシミ芸術監督はオープニングでこう述べた。


 「アーティストと文化の役割は、自己を表現することだけではなく、声をあげられない人々の代弁を担うことにある。私たちは大きな声をあげられるが、パレスチナが自由にならない限り、私たちも自由ではない」。

 

 この言葉は、芸術が人権の文脈と切り離せないことを端的に物語っている。
 なお、国際芸術祭「あいち2025」のいくつかの作品の文脈で取り上げられた脱植民地主義とは、デコロニアルともいわれる。植民地主義自体は終焉を迎えたものの、その影響や残滓を認識し、植民地主義的な知や構造(例:西洋中心主義)から「脱する」ことをめざし、新たな価値を創出する立場をいう。実は、アジア発のデコロニアルの視点が近時の現代アートの新たな潮流となっている。

 

5.現代アートは世界の分断を超えられるか

 もっとも、1つの芸術祭がただちに社会を変え、世界の分断や差別を解消するわけではない。現代アートは難解だという印象が強く、西洋美術史の知識を前提にした作品も少なくない。芸術祭に足を運ぶのは教育水準の高い層が中心であり、「一部のインテリ向けに過ぎない」という批判も理解できる。
 それでもなお、アートには人の心を揺さぶり、価値観を変える力がある。近代国家が芸術文化を国家の威信や戦争推進のために利用してきたことを考えれば、平和や人権を推進する力を担うことも可能なはずだ。
 さらに、近年、西洋中心のアートワールドに対抗し、グローバルサウスや地域社会の文脈を重視する動きが広がっている。 知識人の特権的理解ではなく、ローカルな物語や経験を基盤とする発想である。それこそが「アートとデコロニアル」の接点であり、人権をめぐる新しい想像力を育む可能性を秘めている。
 国内では、2019年から山口情報芸術センター(通称YCAM)でキュレーターを務めるレオナルド・バルトロメウスは、インドネシア出身のアート実践者であり、母国ではヨーロッパ中心主義的なアートワールドに対抗する活動を行ってきた。日本においても、「デコロニアルの視点をどのように日本の制度や文脈に翻訳しうるのか」という問いを持ち続けながら活動している。
 また、大阪公立大学では、2023年度から2025年度にかけて「Equity & Justice(公正と正義)を軸にしたソーシャルアートコーディネーターの人材育成」事業を展開してきた。大阪市西淀川区、八尾市、西成区・釜ヶ崎を拠点に、公害問題から環境共生、多文化共生、再チャレンジや表現の支援といったテーマのもと、デコロニアルの視点を意識した実践が積み重ねられてきた。
 今後は、アーティストの育成事業に比重を移しつつ、上記のバルトロメウスらとともに大阪からの発信を継続していく予定である。

 

6.おわりに

 現代アートは、世界の分断や差別を解消できるのか。この問いに明快な答えを出すことは難しい。しかし、少なくともその問いを提示し続け、社会に議論を喚起し、多様な人々の声を可視化し続けること自体が芸術の自由の役割であり、人権保障に資する営みなのではないか。



参考文献

 吉田隆之編著『アートプロジェクトの変貌 理論・実践・社会の交差点』水曜社、2025
 ・Meike Lettau & Özlem Canyürek. (Eds.) Decolonial Cultural Practices Towards Pluriversal Cultural Institutions  and Policies, Routledge,2025.