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はじめに
皆さんは、「ワクチン」についてどのようなイメージをお持ちでしょうか?感染症から身を守ってくれるもの、天然痘の根絶をはじめとした歴史的な貢献、といったポジティブなものから、打ってもかかることがある、副反応が心配、などネガティブなものもあるかもしれません。あるいは、「子供の時に打つものなので、大人になれば関係ない」と思っている人もいるかもしれません。実際、2020年までは、ワクチン=小児のもの、といった考えが一般的でした。それが日本で一変するきっかけとなったのが、2021年2月から始まった成人への新型コロナワクチンの接種です。当初は、新しいワクチン技術や、非常に高い発症予防効果が大きな注目を集めました。一方で、予防接種法により「努力義務」が課されたことに加え、かつてないスピードで接種が進んだため、「接種しない」という選択をした方々への偏見も少なからずありました。本来、努力義務には何ら強制力はなく、接種の判断には個人の意思が尊重されるべきところ、コロナ禍と相まって混乱が続いた数年間であったと感じています。 2023年6月に開催された「大阪公立大学 2023年度 春の人権問題講演会」にて、「ワクチンについて考えよう~正しい知識を持って、人権を守るために~」というタイトルで、新型コロナワクチンを例にお話する機会をいただきました。本稿では、当時の講演内容から「ワクチン接種の努力義務」をとりあげ、予防接種制度や予防接種法上の位置づけとともに正しい解釈をお伝えしたいと思います。
コロナ禍で問題となった「ワクチン接種の同調圧力」
2020年12月2日に世界で初めて承認された新型コロナワクチンは、ファイザー社のメッセンジャーRNAワクチンでした。これまでのワクチンとは全く異なる、新たな形態のワクチンであることに加え、開発の最終段階である国際共同第Ⅲ相臨床試験では発症予防に対するワクチン有効率が95%と、予想をはるかに上回る結果でした。最新の技術を高い有効率とともに実用化させた外資系メガファーマの底力に、ただただ圧倒された瞬間でした。 日本でも、2021年2月14日にファイザー社のメッセンジャーRNAワクチンが初めて承認されました。同年2月17日、まずは優先接種対象のうち医療従事者への接種が始まりました。その後、高齢者、一般の方々へと接種機会が広まり、モデルナ社など他のメーカーのワクチンも接種できるようになりました。可能な限り早く基礎免疫をつけていただくため、全国に集団接種会場が設置され、今まで経験したことがないような規模とスピード感での接種が行われました。それまでは新型コロナウイルス感染症に対する決定的な予防法がなく、緊急事態宣言が繰り返し発出される中で提供されたワクチンは、初回免疫で必要とされた2回接種の完了率が最終的に80%に達しました。この接種率は、成人を対象としたワクチンでは極めて高い水準であり、「以前のような社会生活に戻りたい」という国民の皆さんの強い願いを表していました。 一方で、「ワクチンを接種しない」ことを選択した方に対する批判も潜在していました。本来、ワクチンを接種するかどうかは個人の判断に委ねられるべきところ、世間では「なぜ接種しないのか」といった意見がありました。さらに、後の報道では、過去に別のワクチンで副反応を経験したため接種を受けずにいたところ、職場の上司から「接種しない人は別の場所で作業してもらう」と告げられ、当事者の方は「差別と感じた」ことなども伝えられました。類似の状況は、「同調圧力」というワードとともに広く知られることになりました。このような状況が生み出されてしまった背景は複雑ですが、新型コロナワクチン接種が「努力義務」とされていたことも一因ではないか、という指摘もありました。
ワクチン接種の「努力義務」とは何か
厚生労働省のウェブサイト「新型コロナワクチンQ&A(2024年3月時点)」のページ1)では、「ワクチン接種の努力義務」について、下記の通り説明されています。
Q:今回のワクチン接種の「努力義務」とは何ですか。
A:「接種を受けるよう努めなければならない」という予防接種法の規定のことで、義務とは異なります。感染症の緊急のまん延予防の 観点から、皆様に接種にご協力をいただきたいという趣旨から、このような規定があります。
ここで重要なポイントは、「努力義務は義務とは異なる」という点です。また、この後の詳しい説明では、(1)接種は強制ではなく、最終的には、あくまでも、ご本人が納得した上で接種をご判断いただくこと、(2)予防接種法に基づいて行われる定期接種の多くのもの(4種混合、麻しん、風しんの予防接種など)にも、同じ規定が適用されていること、などが述べられています。
新型コロナワクチン接種に「努力義務」が課されたのはなぜか
努力義務は強制ではないとはいえ、「義務」という言葉が含まれている以上、強制されているような印象を受ける方も多いでしょう。新型コロナワクチン接種に努力義務が課された理由について理解を深めるため、先のQ&A中の「予防接種法」「定期接種」、そして新型コロナワクチンに当初適用された「特例臨時接種」とともに説明します。 日本では、国が運用する予防接種制度は予防接種法によって定められています。そして、日本で承認されたワクチンのうち、対象とする病気のまん延度(疾病負荷)、有効性、安全性、費用対効果などからみて、接種費用を公費で負担すべきと考えられるワクチンは、予防接種法の「定期接種」あるいは「臨時接種」のいずれかに位置付けられます。定期接種は「平時」のまん延予防を目的とするもの、臨時接種は疾病のまん延予防上「緊急」の必要がある場合に適用となるものです。新型コロナワクチンは臨時接種に位置付けられ、さらに、新型コロナウイルス感染症に関する特例を設けた「特例臨時接種」として、全額公費負担で(無料で)接種できることになりました。特例臨時接種により、可能な限り定期接種に近い実施体制をとりながら、新型コロナウイルス感染症や新型コロナワクチンを取り巻く状況への柔軟対応が可能となりました。 「特例」がつかない「臨時接種」には、予防接種法により努力義務が課されます。一方、「特例臨時接種」では、柔軟対応の一環として、努力義務については法令で適用しないことができる仕組みになっていました。新型コロナワクチンの接種開始当初は、当時の状況に鑑み、接種が可能な全ての人に努力義務を課すという判断になりました。その後、2023年5月8日と9月20日に見直しが行われ、最終的には重症化リスクの高い人にのみ努力義務が適用されることとなりました。
「努力義務」が課されることは特別なのか
努力義務は、日本の法令で広く用いられている仕組みです。強制はしないものの望ましい行動を促し、個人の自由を尊重しながら政策目標を達成することを目的として設けられています。とりわけ、国民に対して努力義務を課すことが多いのは、健康、環境、防災、教育、情報セキュリティといった、社会全体の協力が不可欠な分野です。 予防接種法においても、平時のまん延予防を目的とする定期接種のうち、A類疾病については、集団予防や重篤な疾患の予防を重視する観点から、努力義務が課されています。先に紹介した厚生労働省のQ&Aで「4種混合、麻しん、風しんの予防接種などにも、同じ規定が適用されています」との説明がありましたが、これらはいずれもA類疾病の定期接種です。 また、予防接種法の歴史を振り返ると、かつては「義務接種」(1948年に予防接種法が制定された当初は罰則付き、後に罰則なし)が実施されていた時期もありました。しかし、1994年の法改正により、義務規定は廃止され、努力義務規定へと転換されました。 このように、新型コロナワクチンの接種に努力義務が設けられたこと自体は、決して特別な扱いではありませんでした。しかし、コロナ禍を取り巻く当時の社会情勢や不安の高まりも影響し、「接種しなければならない」「接種を強制されている」という誤解が広がってしまったと考えられます。
ワクチン接種の「強制感」に対する国際機関や日本の中央省庁の対応
海外の状況を見ますと、国が運用する予防接種制度を、日本のように法律で規定している国はほとんどありません。しかし、新型コロナワクチンの接種に限っては、新型コロナウイルス感染症による甚大な社会的影響を考慮し、努力義務の一段上のレベルである「義務化」について議論した国がありました。この状況に対して、国際連合のミシェル・バチェレ人権高等弁務官が懸念を示し、2021年12月、国際連合人権理事会のセミナーで公開されたビデオメッセージで、「新型コロナウイルス感染症対策としてワクチン接種の義務化を検討している国は、人権を尊重し、正当性や必要性、均衡性、非差別の原則に従わなければならない」「いかなる状況でも強制接種は許されない」と主張したことが報道されました。 日本では、法務省が、「感染症に関連した偏見や差別をなくしましょう」というウェブサイトで啓発動画「『誰か』のことじゃない」を公表しています2)。感染症に対する知識や理解の不足から、社会生活の様々な場面で、差別やプライバシー侵害などの人権問題が発生していることへの対応です。以前は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)や肝炎ウイルスについての啓発が主でしたが、コロナ禍では、「新型コロナワクチンの接種に関連した不当な差別はやめましょう」というメッセージとともに、「STOP! コロナ差別 <新型コロナワクチン>編」として、「うちの会社ではワクチン打たない人は辞めてもらうよ」と上司から告げられた会社員を主人公としたストーリーの啓発動画が公開されました。2024年4月、新型コロナワクチンの予防接種法上の位置づけが特例臨時接種から定期接種B類疾病(定期接種のうち、接種の努力義務を伴わない類型)に切り替わったため、「新型コロナワクチン編」の動画公開は終了し、現在は「感染症編」のみの公開となっていますが、「新型コロナワクチンの接種に関連した不当な差別はやめましょう」のメッセージは今も残されています(2026年1月現在)。
おわりに
人権問題を考えるうえで重要なことは、「正しい知識」を持つことです。本稿では、ワクチン接種に関わる人権を守るための知識のうち、「ワクチン接種の努力義務」を取り上げました。また、ワクチンの本来の役割は、接種を受ける人自身を感染症から守ることにあります。正しい知識を持つことは、周りの人々の人権を守るだけでなく、自分自身を守ることにもつながります。 コロナ禍の大変な記憶が薄れつつある今、皆さんにとってのワクチンは、自分とは関係ないものになってしまったかもしれません。しかし思い起こせば、2009年には新型インフルエンザのパンデミックがありました。当時は幸い、甚大な社会的影響には至りませんでしたが、10年に1回程度の周期で、感染症パンデミックは起こるのかもしれません。感染症パンデミックが起こらなくても、ワクチンは今後、皆さんやご家族にとって身近な存在になることが予想されます。冒頭で述べましたように、これまでは「ワクチンは子供の時に打つものなので、大人になれば関係ない」といった考えが一般的でした。しかし近年は、国際的に「ライフコース予防接種(life-course immunization)」、すなわち「子どもだけでなく、思春期・成人・高齢期まで、人生の各段階(ライフコース)に応じて必要なワクチンを計画的に受ける」という考え方が主流になっています。感染症のリスクは年齢とともに変化するため、生涯を通じたワクチン接種の重要性が認識されるようになったためです。日本でも、2013年以降、思春期のお子さんや成人・高齢者を対象とした定期接種が拡充されています。定期接種に位置付けられているワクチンは、厚生労働省やお住まいの自治体のウェブサイトなどで情報が提供されています。今後、ご自身やご家族が対象となった時、ワクチンについて改めて考える日が来るかもしれません。本稿が、その時にお役に立つのであれば幸いです。
参考にしたウェブサイト
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