西成情報アーカイブ ギャラリー
所蔵のごく一部ですがご紹介いたします。
他にも閲覧いただける所蔵物はございますのでお問合せください。
![]() |
高度経済成長期の西成区を上空から撮影した写真です。北部を中心に太平洋戦争末期の空襲で焼け野原となりましたが、そこから復興した様子がうかがえます。焼けた跡に建てられた住宅や公共施設、幸い焼け残った古い木造住宅などが写っています。 |
![]() |
今では高架となっている南海電車の天下茶屋駅のかつての様子です。つまぶき屋根を構造的に組み合わせた古い木造建築でした。当時はまだ各駅停車と普通しか停車せず、駅前ロータリーの様子も懐かしさを感じさせます。 |
![]() |
日本一の日雇い労働者街である釜ヶ崎にある通称「三角公園」(正式には「萩之茶屋南公園」)でくつろぐ人びとの姿をとらえたものです。夏には盆踊りなどが開かれて、憩いのひと時を提供する場所となっています。右上には、街頭テレビが写っています。 |
![]() |
寺島珠雄が編集・発行した雑誌です。創刊号(1974.12)から第14号までは月刊、15号からは不定期刊行となり、第38号(1985.5)で終刊となりました。各巻にはテーマを設けており、「しごと」「ふとん」「めし」など日雇い労働者の生活に密着した内容でした。 |
![]() |
1980(昭和55)年5月から開講された釜ヶ崎夜間学校で編集・発行された文集です。第1号(創刊号)には、「あいりん地区点描」など釜ヶ崎の現状を簡潔に伝える文章が掲載されています。続いて刊行された第2号には「釜ヶ崎哀愁の句集」などが掲載されています。 |
![]() |
大阪市内の各区ごとに分冊でまとめた住宅地図帳の西成区のものです。現存する戦後の大阪市内の住宅地図では最も古く、太平洋戦争後10年しか経過していないにもかかわらず、多くの人がひしめきあう住宅で暮らしていたことがわかります。 |
![]() |
鶴見橋通り商店街での夏祭りの様子です。奥の方には商店街のアーケードがみえます。御神輿が渡ろうとしているのは、十三間堀川で、まだ水質汚染は受けていないように見えます。十三間堀川は現在、阪神高速道路堺線の橋脚の下で暗渠となっています。 |
![]() |
堺筋と国道43号線が交差する「太子」交差点から堺筋を南へ下って西側にあった地蔵尊です。右側の石柱には「今宮」「飛田」とあり、左には地蔵尊の由緒を記した石碑が建っています。堺筋が拡幅される前はもう少し東側にはりだしていたようです。 |
![]() |
釜ヶ崎医療を考える会が編集・刊行した冊子の第3号です。病気やケガをした日雇い労働者への処置や対応が杜撰な病院を個別に調査し、その実態を詳細に記しています。そのうえで、日雇い労働者が安心して受診・治療できる医療機関の必要性を説いています。 |
![]() |
西成区内の小学校で使用された副読本です。暮らし、仕事、交通、健康といった人びとの生活に深くかかわりがあるテーマを掘り下げ、西成区の歴史や文化についても触れています。豊富な統計や写真、地図などを使って学習しやすいように工夫されています。 |
![]() |
太平洋戦争開戦の翌1942(昭和17)年に空から撮影された西成区の写真です。戦争末期にあたる1945(昭和20)年3月の大阪大空襲で、区内は北部を中心にB29から投下された焼夷弾で灰燼に帰しましたが、それ以前の西成区の繁栄が写し出されています。 |
![]() |
高度経済成長期の花園町交差点です。北西側から南東側を写したもので、右手には「いづみや」(現・イズミヤ)の看板が見えます。左手上の石積みの塀は、弘治小学校のものです。子どもの服装や持ち物、交差点を行き交う車やバイクが往時をしのばせます。 |









