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2021年2月24日

コラム「女の話は長いのか?」

府立大学名誉教授 堀江珠喜

目次

《古今東西、女はお喋り好き?》

《イエスマンと根回し》

《仕切り役が重要》

《日本語の女言葉ゆえに!》

《「女らしさ」と「セクシー」》

《女性の医師は優秀!》

《終わりに》

 

「女性は話が長いため会議時間が長くなる」との東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長(当時)M発言のおかげで、日本における女性蔑視の現状を、世界が認識してくれることになった。あるいは、与党政治家の愚かさが、またもや露呈したというべきか。
私自身、神戸女学院在学中、特に米人教師の時間には、自由奔放に発言できた。だが神戸大学大学院では、文芸評論家として既に有名だった国文のN助教授から、「女は思ったことの半分だけ言え。それが賢明だ」と注意され唖然とした。偶然ながら、このN先生とM前会長とは同い年、1937年生まれ。(1937年生まれの男性に対する差別意識・偏見を持ってはならないが、トラウマは消えまい。)
そのいっぽうで、実は私自身、(男女問わず個人差の問題という前提はあれ、一般論として)日本女性は、日本男性より長く話す傾向があると、40年ほど前から感じてはいた。それについては、拙著『助教授の大学講座二十章』(北宋社、1993年)でも述べたのだが、今回は、改めて日本の特殊環境と日本女性の話し方について、考えたい。

《古今東西、女はお喋り好き?》
日本では「女三人寄れば姦しい」と言われ、かつてCMで「男は黙ってXXXXビール」のフレーズが流行った。
女がお喋り好きなのは、英語のジョークのネタにもなっているから、日本女性に限った現象ではあるまい。

問題は、伝統的な日本男子において、寡黙が美徳だったことだ。これは「村」社会では礼儀にかなっていたのだろうが、議論・討論能力が重視される国際社会では弱点でしかない。
堂々と主張しろ、無言では非を認めたとみなされるのに、どうも彼らにはそれが理解できないらしい。特に国際的な場面では、敏速に反論してくれないと、日本国民全員が迷惑するのだ。
つまり、話さない、ではなく話せない、話術もなく、ましてや自分の意見も持たない多くの男どもが、日本では偉そうな顔をして、女性を見下すことで、自分たちの地位を保っていると、外国からみなされても仕方がないのだ。

言いたいことが言えない、あるいは自分の意見が自分でもよくわからない思考停止&欲求不満の日本男子たちを、いい気分で酔わせ、「僕って、やっぱり偉いんだよな」と錯覚させてくれるプロ中のプロが、銀座のクラブの女性たち。
接待を伴う高級店に行けない大部分の男性も、自棄酒で憂さ晴らし。だが、多くの女性のストレス解消法は「お喋り」だ。コロナ禍で、免疫力低下防止に、旧友から長電話がかかってくる。
「お喋り」自体が「お楽しみ」であり、なにも目的があっての意見交換ではないが、副産物として、多少の情報収集にはなる。そして、それらが、別の機会でも、話のネタになるのだ。
こうして、女性の話題は多種多様で、複数の話題が同時進行し、泊まり込みの女子会でも、お喋りはつきない。

いっぽう、一般論として、日本男子の話題の乏しいこと。
数年前、国会図書館近くのCホテルで、夕食時、隣のテーブルには高校生くらいの男子と父親と思しき中年がいた。険悪な雰囲気ではないのに、彼らは全く話すことなく、黙々と食べている。唯一、言葉を使ったのは、デザートメニューを見ながら「どれにする?」「僕、これ」。
もしこれが母娘なら、仲の良し悪しにかかわらず、絶対に黙ってはいない。沈黙は拷問なのだ。私には男兄弟も子供もいないので、このときの父倅の様子は異常に思えたが、どうやら日本の家庭では、別段、不思議な光景ではないらしい。要するに、日本男子は、楽しい会話ができないのだ。
ここで我々が認識すべきは、そもそも女のお喋り好きは世界の常識であり、日本女性もその例外ではないが、日本男子には、コミュニケーション能力に欠陥があるのかもしれないという我が国の大弱点である。

《イエスマンと根回し》
そんなコミュ力不足の男がリーダーになると、自分よりできる存在を鬱陶しく思う。(本当に有能なトップなら、自分の弱点を知り、それを補って余りあるような人材をブレインとして側近にするのだが、一般論として、アホはアホとつるむ。)
そこで、周りをイエスマンで固める。(わざわざ「マン」と呼ぶのは、女は出世より持論を尊重するきらいがあるからだ。)当然、会議は「殿の仰せのごとく」で進められるから、早く終わるに決っている。反論には知恵とエネルギーがいるが、同意は「猿でもできる反省」より楽だ。

イエスマンばかり集めなくても、日本には「根回し」なる風習がある。これで会議は形骸化し、早く終わる。おそらくは男子「村」社会で受け継がれている手法ゆえに、急に女性が参画した場合、男性メンバーは、彼女にどう接していいか、勝手がわからない。銀座のクラブに連れて行きにくい、一緒に温泉にも入れない、裸の付き合いができないので困る。そりゃ、困るだろう。
第一、現代日本男子の中にも、家族と水商売、フウゾクの女性以外の異性とは親しく話したことがない、などという連中も決して珍しくないようなのだ。事実、私が本年度に担当した初年次ゼミの学生には、異性交際禁止規則のある男子中・高校出身の者もいた。おそらく受験勉強に差し支えるとの判断からだろうが、あの天下の灘高においても、そんな校則は、私が神戸女学院在学中の半世紀前には既になかった。
そんな男子が、府大でも女子学生比率の低い専門で、しかもクラブ活動でも異性との交流の機会がないとしたら、そのまま社会に出て、戸惑いはしないだろうか。別学が悪いわけではなく、私などはむしろ別学賛成論者だが、日本が自然に性を越えて共同参画できず多様性を許さぬ社会なのは、青少年をつまらない規則で縛ることも一因ではあるまいか。

さて、私が住む芦屋市は、全国で最初に女性市長を誕生させた自治体だ。相手候補は現職二期目で、記憶に間違いなければ三百の支援団体がついた激戦だったが、芦屋市は戦前から個人主義が尊重される(日本では特異な)地域ゆえに、彼女が当選したと考える。(当たり前だが、投票するのは団体ではなく、個人なのだ。)
しかし就任直後、市議会では「彼女は根回しをしない」と不評の噂を聞いた。
彼女は、「問題は、議会で、きっちり論じるべき」との正当な考えで「根回し」をされなかったとか。確かに「根回し」においては、「密室」で相手の要求を受け入れるバーター取引が生じ得るから、必ずしも「公明正大」ではない場合もある。彼女は、それがお嫌だったらしい。
だが「根回し」慣れした議員や役人には、「これまでのやり方を無視する困ったオバサン」だったようだ。
しかし、阪神大震災時の活躍などで市民の信頼を得た彼女は、二期目の選挙で圧勝し、日本の各地に女性首長も誕生してゆくことになる。

そうそう、欧米にも「ロビー活動」があるではないか。「根回し」の得意な日本の男性政治家も、自分の「村」を離れた異国での「ロビー」は苦手なのかも。なぜなら、海外では「村」の上下関係やら、義理人情、恩義、貸し借りなどの道理が通じぬためだろう。そもそも言葉やセンスも通じないのだろうし、「銀座」接待も無理。

今から思うと、大阪府立大学総合科学部は、わりに住心地の良い「村」だった。教授会メンバーには男性が多く、彼らのやり方を受け入れて上手く立ち回るほうが得策だったから、私も「根回し」を活用した。
某男性教授が、私の研究室へ「反対票」の依頼に来たときは、もちろん笑顔で頷きながら、こちらの要望も伝える。タヌキとキツネの化かし合いでも、結局は同じ「村」の生き物同士だから、ごく一部の教授以外は、かかる場外活動で、重要事項については意見がまとまった。当時は、学長も学部長も、選挙により決められたから、「まさか!ありえない!」ような幹部はいなかった(と思う)。

《仕切り役が重要》
その頃、耳にしたのは、大阪女子大の教授会が、我々の会議に比べて、かなり長時間に及ぶということだった。理由は「あちらのほうが民主的なので、議論を尽くすのだ」とか。その真偽は知らないが、決して女性教授が多いから長引くというわけではあるまい。
後年、女子大と統合したが、総合教育研究機構教授会時間が長くなったとの印象はない。仕切り役が巧かったおかげだろうか。
そういえば、初代の仕切り役が、教授会直前に、菓子を持って私の研究室へ「根回し」にいらしたことがあった。大学院英語教育について、重大な議案があり、それに対して私が大騒ぎしないように、予め説得しておこうというわけだ。菓子までくれたのだから、相当、私の反発を心配されたのだろう。
お互いに「根回し」の利点は、議事録に残らないことだし、依頼されたほうが強い立場なので、見返りとまではゆかずとも、その件に関しての要望を突きつけやすい。すべては私の研究室(密室!)で決まった。
その2時間後の教授会では、私が「現在の英語教員にさらなる負担がかからないように、大学側で人材を見つけ配置する。我々は一切、関知しない」ことについて確約を求め、教授会の承認を得てその旨は、議事録に記された。スムーズな議事進行だ。
私個人の体験では、総合科学部教授会で、長々と話したがるのは、男性教授がほとんど。特に、講義のない時期を経た9月の教授会は、緊張感に欠け、どうでもいいような議論が、彼らによって長引く傾向にあった。

一般論だが、男性より女性の方が環境への適応能力が高い。従って、日本男性社会で働く女も、男のやり方をさっさと会得してしまう。それが、かえって、男女共同参画社会への変化を遅らせてしまったかもしれない。
しかし、とりあえず「仕事のできる女」を男たちに認めさせなければ、後に続く同性のチャンスを潰すことになる。私の世代は、そんなプレッシャーも感じながら、正直なところ手探りで歩んだのだ。
府大の前は、園田学園女子大学で非常勤講師として4年、常勤教員として9年勤めた。女子大で文学部や短大家政学部の事情から女性教員が多かったのに、府大に比べてこちらのほうが、制度にもトップ(男性)の感覚にも女性差別が強かった。
議題は忘れたが、ある日、教授会が午後5時半を過ぎても終わりそうになかった。「教授会」だが、助教授、専任講師、助手も出席し、全員に発言権があり、もめだすとややこしい。とうとう学長が発言した。
「いろいろご意見があるようですが、まあ、女性の先生方も多いことですし、夕飯の支度の時間も迫っていますから、あとは私にお任せいただいて、教授会を終わりたいと思いますが、どうですか」
夕飯の支度は女の仕事、そのために教授会終了とは、今なら新聞沙汰になりそうな発言だが、時代はまだ昭和の終わり。しかも学長は理事長兼任で、我々の信頼も得ているし、なにより、若いときの私は忙しかったので、理由はどうあれ、会議が短いのは歓迎した。
話は逸れるが、夕飯がしかるべき時間に食べられるように帰宅できるよう、雇用者が気配りするのは、まさに「働き方改革」に連動するのではあるまいか。別の機会に、女性と家事については議論したいのだが、誰が夕飯を担当しようが、家で栄養に配慮した健康的な夕食が、いわゆる食事時間帯にとれるような労働は、好ましいはずだ。
ともかく、女性が多かろうが少なかろうが、仕切り役の能力こそが、会議の時間を左右する。そんなこと、小学生だって学級会で、理解しているはずだが。

《日本語の女言葉ゆえに!》
ところで、冒頭に、日本女性の話が長いとの旨を述べた。反論もあろうが、まず理由を聞いて欲しい。
日本語には「女言葉」があり、こちらのほうが「男言葉」より丁寧で優しい感じがする。だが、どうしても長くなる。
その昔、日本の教養ある男性は漢文を書き、ひらがなが女性の文字だった。つまり、男性は漢語、女性は大和言葉を常用したわけだ。当然ながら前者のほうがまとまった感じになる。また音読みは訓読みより簡潔で、たとえば「学校」のほうが「学び舎」より短い。そして訓読みのほうが優しく響き、「女性的」と思われてきたのではあるまいか。
ちなみに、名ソプラノ歌手、マリア・カラスを大阪公演前に診察した耳鼻咽喉科医の故西川泰次医師によれば、漢語より和語のほうが、声帯に負担が少ないのだとか。また、女性は生理中、(どういうわけか!)声帯を傷めることが多いそうだ。私の声が出なくなったときも声帯をチェックして「失礼ですが生理中ですか」と、ピシャリと当てられた。同症状の女性を私は複数人、知っている。もしかしたら、本能的に、日本女性は、柔らかい言葉を口語に取り入れて声帯を守ってきたのかもしれない。閉経前の方々は、どうぞご注意を。

このように、日本において、伝統的に男性は短く、女性は、やや長く言語表現する傾向にあったと思われる。すると、短いのが男性的で、長いのが女性的との思い込みが成立する。
たとえば1960年代の典型的ホームドラマで、夫が妻を呼ぶときは「おい!」で、その反対は「ねえ、あなたぁ」である。字数にすると倍以上の差となる。よく「私の名前は『おい』じゃないわよ」との不平がジョークのように言われたものだ。
さすがに私の世代、少なくとも私の夫は、私を「おい!」などとは呼ばない。だが彼は「旨い!」を使うが、私は「美味しいわねえ!」と言う。やはり字数にして倍以上になるのだ。これが、第三者、たとえば、ちょっと高級なレストランのウェイターに対してなら、「旨かったよ」と男が褒め、「大変、美味しゅうございました」と女が微笑むのではあるまいか。
「女」を発揮する気がなくても、丁寧に言おうとすると、どんどん字数が増える。つまり長くなる。
英語でも、water,please!より丁寧に言うならcouldや would から始めてセリフは長くなるので、性別を問わず、上層・知識階級では、長く話すに違いない。だが、日本社会では、それに加えて、女性であることが、言葉数を増やす結果をもたらしているのだ。

面白いことに、昭和初期の大衆小説では、時折、男言葉のお嬢様などが、登場する。「君と僕は……」などと、ご令嬢同士が、おしゃべりするのだ。もしかしたら、当時のモダンな女学生たちのあいだで、宝塚歌劇の男装の麗人などに憧れて、一時的にその口真似をする者がいたのかもしれない。その頃なら、いわゆる大正デモクラシーの洗礼を受けた人々の影響も受けただろう。ただし、これらのご令嬢たちにしても、人生のほとんどは、女言葉を使って過ごしたはずだ。

日本語は美しい言葉だと思うが、私が若い時に鬱陶しく感じたのは、この女言葉で男性並みに発言する場面においてである。どうしてもパワーが落ちる。英語なら、こんな遠慮するような言い回しにはならないのにと、歯がゆかった。
さらに単語のみならず、どうしても直接的な表現を避けるのが、日本女性の話し方の特徴でもある。特に私の周囲では専業主婦に多いのだが、「悪く思われないように」という自己防衛本能が強く、本題に入る前の言い訳が長々とある。
たとえば「私が、こんなことを言うからって、決して彼女のことが嫌いだとか、羨ましいと思っているわけではないことはわかってね」などという前置きである。しかも、この類のフレーズが、本題の最中にも、しばしば繰り返される。おそらくは、専業主婦同士の付き合う「村」で、除け者にされないためのレトリックなのだろう。
また、結論がなかなか発表されないのも、我々世代までの日本女性特有の喋り方かもしれない。「昨日、映画に行ったの?」に対して、yesかnoが、まず出てこない。たいてい返事は「それがね…..」で始まり、一通りの事情説明が終わってから、「それで行けなかったの」となる。

《「女らしさ」と「セクシー」》
20歳代の私は、これらの女言葉や女性的お喋りが、男性との仕事には適さないことに気付いたので、それからは長くも話せるけれど、簡潔にまとめられるように自分なりに工夫したつもりだ。
NHKのラジオ深夜便で「新聞を読んで」の収録時には、定められた時間でちょうど終わるように秒針と睨めっこしながら、そのドキドキ感を楽しんで話したし、電話の留守番機能に残すメッセージなど、得意中の得意である。
かといって、いわゆる「女らしくない女」というのは、男社会の中心メンバーたる男性はもちろん、家庭で夫を支える役割にあった妻たちからも、おそらく若いオシャレな女性からも嫌われた。「だから、キャリアウーマンは、可愛げがなくて野暮ったくなるんだわ」と、鬼の首をとったように言われたのだ。

働く女が、同性から嫌われ悪く言われたなら、我々の後に続く女性たちにも迷惑をかけることになると、私たち世代は、これまた試行錯誤。
だが、そもそも日本の「女らしい」は、「おとなしい」、「優しい」、「しとやか」、「か弱い」、「楚々とした」などの和装に似合う言葉を連想させ、スーツで「働く女」とは真逆のイメージなのだ。
じゃあ、専業主婦は、これらの要件を満たしているのかと、私は逆ギレなどしない。伝統的「女らしさ」は日本男子にとって「男」としてのアイデンティティを保つために都合の良い「女の理想像」に過ぎない。従って実在するわけがないのだ。

それより、日本男性社会で、女が男並みの賃金を得るには、「強く、正しく、美しく」をモットーにするべきだと、私は考える。
この場合の「正しく」は、「正義」を唱えるのではなく、「自分の正当性を確保し、主張できること」と微妙に異なる。つまり、正義か否かではなく、必ず自分を守るために「理論武装」しておく「知恵」が必要という意味である。いざとなれば、それで戦う「強さ」も欲しい。ただし、孫子の兵法にあるように、自分の負けが決まっているような争いは避けるべきで、「負けるが勝ち」と、賢く実益優先すればいい。
最後の「美しく」は、オシャレや「女」を忘れて同性から軽蔑されるなという意味である。先述のように、伝統的日本の「女らしさ」と、働く女は相容れない。それなら、働く女の先進国、欧米の女性を見習い「セクシー」路線を貫こうじゃないか、と私は考えた。私がロングヘアー、ハイヒール、ボディコンシャスラインの服装を好むのは、そのためである。もちろん、他にもっと賢明な方法があるだろう。各々がお考えになればいい。
私の経験では、見かけが「いかにも女」なら、直球で発言・反撃しても、案外、日本男性社会では面白がられるものだ。

オリ・パラ前会長は、クオータ制に不満のようだが、日本でも前世紀末から各「審議会」において、少なくとも3割は女性委員であることが好ましいとされている。おかげで私も30歳代から、あちこちの審議会委員をさせていただいた。私が40歳くらいのとき、毎回、「本日は、発言を控えさせていただきます」としか言わない年配女性委員がいた。それなら委員を辞任しろ!と、私は心の中で突っ込んだ。
私の発言は短いほうだが、(差別用語や放送禁止用語は絶対に使わないよう気遣うが、それ以外は)遠慮なしに思いの丈を述べる。「珠喜節」と揶揄または称賛されたものだ。
その発言の鋭さが気に入られたようで、昨年は、関西民放ラジオ各社による番組審査会で、委員を勤める機会を得た。
閉会後に男性担当者から送られたメールには、「各社編成責任者から、まっとうなことを、ずばっとおっしゃるので気持ちよかったです、と後から言われて誇らしかったです。….うちのスタッフ(男性)もズバッという堀江さん格好いい!と申しておりました」などとあった。
リップ・サービスであるとしても、「ズバッという女性」に好感を寄せられる時代になったというのは、私としては感慨深い。(もしかしたら、ババア年齢に達したので、彼らにとっては「女性」の範疇に入らない生き物になった可能性も否めないが。)
ついでながら、コロナ禍で、審議会もオンライン化され、この1年は、送られるCDを聴いて、意見をメールで事務局に提出している。すると、会議では、うんざりするほど長々と話す男性委員が、文章だと物足りないほど短い。つまり、文字で表すほどの内容はなかったということか。私は「ですます体」を用いず常体で書くので、より鋭く主張できて嬉しい。
 
《女性の医師は優秀!》
私は大変、運の良い人生を歩めたおかげで、定年退職後も「名誉教授」の肩書をいただき、あたかも「偉い人」のようなふりができる。ほぼ皆様のお役に立つことなく、まあ扶養家族のいないぶん、税金はわりに払ってきたが、「研究」と言っても「趣味」みたいなものだったから、「ラッキー」と思いながらも、申し訳なく思っている。その点、やはり女性のお医者様は凄い。
私がまだ30代の頃、非常勤講師として神戸大学医学部一年生の英語を担当したのだが、そのとき、クラスの三分の一は女子学生だった。男女雇用機会均等法以前、平等とはいえなくても、それに近い収入やチャンスが得られた職業は、公務員、医師、弁護士、教員くらいだったので、文系の才女は弁護士、理系なら医師が、人気の選択肢であったわけだ。

私の神戸女学院高等学部の同期生143名のうち、医師になったのが5名。当時の「お嬢様学校」としては、多いほうだったが、現在の在学生の6割以上は医学部に進学志望とも聞く。
私学の医学部で、女性の受験生に不利な採点をし、男子学生が多く入学するよう調整していたスキャンダルがあったが、要するに、女性の方が優秀だということを逆説的に証明したような事件だった。
芦屋でダントツに優秀な開業医は?と問われたなら、私は迷わず、女性医師二人(耳鼻咽喉科と眼科)の名前を言うだろう。ただし、待ち時間は長い。患者が多いこともあるが、説明が丁寧なのだ。
患部とは直接関係のないような話もされ、待たされている側としては、苛立つかもしれないが、パソコンの画面ばかり見て、患者と目を合わせない男性医師よりは、よほど信頼できるのだ。
雑談と思えても、そこから女性医師は、患者の話し方や表情から、なんらかの情報を読み取っているのではあるまいか。そのため、患者の状況をよく考慮してくれるように思われる。

前述の神戸大学医学部で私が教えた女性が、後年、病院勤務医となり、偶然ながら入院していた(園田時代の)私の教え子の担当となったそうだ。何かのきっかけで、それを知った医師と患者は、私の話題で盛り上がったとか。不治の病人にとっては、そんなひとときが、どんなに嬉しかっただろう。
かかりつけ医や担当医は女性のほうが、男性医師の場合より、患者が長生きするという海外のデータについて聞いたことがある。その理由は、見栄を張りがちな男性とは違い、女性は、質問することを恥とは思わず、納得がゆくまで調べるからなのだそうだ。そして、どの病院の誰に紹介状を書くべきか、人脈を把握しているのではあるまいか。
まさに「強く、正しく、美しく」である。白衣の女性医師は、素敵だ。患者に安心感を与える「知的美」がある。 文系の私は、この白衣に縁がなく、羨ましい。だから私は私で、演出を考えたわけだ。
そういえば、人気テレビドラマのドクターXも「強・正・美」の権化で、男性医師たちが構成する白い巨塔の「慣習」を、「致しません!」と突っぱねるではないか。

さて芦屋では、セクハラ的話を長々とする男性医師が開業しており、私は一度で行くのを止めた。「ファンタジーXX」とのあだ名がつき、私の周囲も一度で懲りているが、『白い巨塔』のモデルになった名門大出身だからか、開業して長いためか、シニア患者は多い。
ともかく、話の長い、短いは、個人差の問題なのだ。また、話が長ければ悪いわけではなく、内容や効果の有無が重要である。

しかし、何事につけ、女性が失敗すると、個人の責任ではなく、「だから女は」と、女性であることがそもそもの原因のように言われてきた。そうならないように、社会進出した女性は(及ばずながら私も含めて)、言動に注意し、男性以上に成果を出そうと努力してきた。ときには男性社会に迎合したと思われるかもしれないが、もっと女性が社会に進出し、クオータ制でもなんでも、会議に出て発言するのが当たり前にならないと、男女共同参画なんて、絵に描いた餅、いや絵にも描けないのだ。だって、見たことがないのだもの!

《終わりに》
M前会長のみならず、日本男子たちの多くは、現象(女性理事の話は長い)というwhatだけではなく、もしそうだとすれば、その理由(why)、さらに改善策(how)をセットで考えるべきなのだ。まあ、M前会長の場合、whyに「女性は競争心が強くて」と、見当違いの理由をつけていたが、それならそれで、どうすればいいのか。結局は、お粗末な仕切り能力をさらけ出したに過ぎない。
オリパラ前会長の発言について、私個人としては、1930年代生まれの日本男子なんて、あんなレベルだし、10年以内に、ほぼこの世から消える!などと失礼な想像をするのだが、それよりも気になるのは、現代日本のマスコミの姿勢である。

今回、連日、この発言を問題視していたニュース・情報番組のスタジオに、女性が一人もいないことすら、しばしばあった。1950年以降に生まれたと思しき男たちが揃って、「女性蔑視は問題!」とカメラの前で言わされている。また、番組に現れる唯一の女性が、若く美しく発言しない「アシスタント」だったりする。
その場面そのものが、「女性不在」、「女性無視」で、日本の男性社会そのものの縮図であり、「女性蔑視」を表していることに、出演者、制作者、スポンサー、そして多くのジェンダー研究者たちも気がついていないのではあるまいか。無意識のうちにM前会長的感覚を継承している彼らのほうが、当分「絶滅」しそうにないぶん、実は、厄介なのである。