サイト内検索
2026年3月16日
担当:philo
同性愛者という主語で括られて話されるのは嫌だな…、と最近思うんです。それ故にこのタイトルなのですが。というのも、先の選挙ではあまり話題には上がりませんでしたが、同性婚の話になると、あたかも全ての同性愛の人がそれを望んでいるように書かれますよね。逆に、同性愛者でもそれを望んでいないという当事者の意見が出ると、物珍しさを覚えるのか、話題になる。選挙戦の期間中、「同性婚は望んでいないし、今は防衛費増額の方が大事」という旨の当事者の発言が、俗に言う「万バズ」していました。わざわざそれを明言しなければ、同性愛者というポジションが個人に先立って、周囲の理解に影響を及ぼしてしまっていると感じます。だからこそ、括弧付きの「同性愛者」として生きようというわけです。
「保守的な同性愛者」という人ももちろんいるはずです。しかし、同性愛者という大きな主語で語られ、そのポジションを規定されてしまえば、それは矛盾しているように聞こえるし、誤っているようにも感じるのです。しかも、その主語は同性愛者からマイノリティ等のより大きなものにも変換され、リベラルな政策全般に賛同的な個人へと読み替えられてしまうことも少なくないでしょう。例えば、夫婦別姓や外国人の受け入れ等、同性愛者に直接的なかかわりがないように思われることでも、それらについて寛容な態度の個人だと、同性愛者やマイノリティというポジションから理解されてしまうこともある。「同性愛者もリベラルであれ」と要請されているような気もします。「同性愛者」という生き方は、その大きな主語に包摂されない可能性を秘めていると思うのです。
このように考えると、同性愛者、マイノリティというポジションに属しているというだけで、他の同じ境遇の人たちにまで責任を負わなければならないのかという議論も出てくると思います。これについては、ポジショナリティという概念から考察できそうですが、それに言及すると、お堅いコラムになってしまいそうなので割愛します。ご関心がある方は、ポジショナリティ研究の最先端である池田緑さんや江原由美子さんの著作をお読みいただければと思います。
ここで少し余談ですが、コラムというものはどのようなものなのでしょう。先に述べたように、文献を引用して書いたコラムはあたかもレポート的であり、お堅いものだと感じています。僕個人としては、日頃感じていることをつらつらと書けたらくらいの感覚なのですが。それも人それぞれでしょう。高校生の頃にこの女性学研究センターのコラムをよく読んでいました。その時に読んだ、堀江珠喜さんのコラムが今でも憧れです。非常にクリティカルで内容は当時の僕には難しかったものの、とてもユーモラスな書き口でスラスラ読める。文才があまりない僕にはまだまだ難しいですが、堀江さんの文章が僕の中ではコラムの理想形です。
少々話が逸れましたが、今回僕が何を伝えたかったのかと言えば、偏に同性愛者といえども、色々な人がいるのだということです。同性愛者だからと言って誰もが同性婚を望んでいるわけでもないし、パレードに参加したいわけでもない。しかし、今の社会は、同性愛者という大きな主語があまりにも強く当事者一個人に作用しすぎている。その大きな主語に一括りにされている。具体的にどう行動すればよいのかというのは難解な問いですが、ミクロレベルには括弧をつけた「同性愛者」という生き方があると思います。それは一括りにされることへの小さな抵抗であり、自身のスタンスを確立するという、自己にとっては大きな一歩ではないでしょうか。
「なるほど」と感じていただけたら幸いです。ご一読いただきありがとうございました。
当サイトではサイトの利用状況を把握するためにGoogle Analyticsを利用しています。Google Analyticsは、クッキーを利用して利用者の情報を収集します。クッキーポリシーを確認