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2026年4月19日
担当:彗星
新年度が始まり、ORGEL設立時は1回生だった私も3回生となってしまった。大学生活も折り返し地点、より積極的に学んでいきたいところである。
さて、私は現代システム科学域に所属しているが、この学域では年に数回「海外フィールドワーク」という授業が開講されており、この春、私も参加する機会を得た。今回訪問したのはカンボジアで、2/26~3/8にかけて、前半はアンコールワットなどの観光、後半はRUPP(王立プノンペン大学)の学生と一緒に、社会課題解決案を考えるグループワークを行った。1週間の滞在で多くの思い出ができたが、今回はこのフィールドワークを通して考えた「平和」について共有したい。
滞在5日目、RUPPの学生とともに首都プノンペンにあるトゥルースレン虐殺博物館を訪れた。皆さんもご存じの通り、カンボジアは1975年から1979年まで続いたポルポト政権の支配により、推定170万人以上の国民が虐殺され、1991年に国連の介入があるまで、20年以上も内乱の状態にあった。この施設は当時使われていた収容所(S21)をそのまま博物館として残し、歴史を後世に伝えている。
訪れて初めて知ったことだが、ポルポト政権以前は高校として使われていたという。そう言われてみると確かに、教室や中庭など、日本の学校にもよく似た造りである。しかしその内部には、血痕、壁に埋め込まれた鉄の枷とベッド、無数の人骨があり、中庭には実際に使われた拷問器具が置かれていた。解放後に生存者が描いた絵には、部屋にすし詰めで寝かされている裸の人々がいた。各部屋の前には、誰がそこに収容されていたのか、名前・年齢・性別が記された看板があった。文章だけでも衝撃的だが、実際に見るのとは比べ物にならない。何よりも印象に残ったのは、何千枚にも及んで展示されていた収容者・関係者の個人写真である。老若男女問わず撮られたその写真は、みながこちらをまっすぐ見ている。ほとんど全員は無表情だったが、クメール・ルージュへの忠誠を示す帽子を被った少年たちだけは、気持ちはにかんでいるようにも見えた。しかし彼らもまた、収容者となった可能性が高い。写真のうち大多数の人々は、殺されたか、消息不明である。
驚いてしまうのは、この出来事がたった50年前に起きたということだ。現在のカンボジアは経済的成長の真っ只中であり、次々とビルが建ち並ぶ街の様子からは想像もつかない。しかし、フィールドワーク中に地域の人にインタビューをしようとした際、RUPPの学生から「文字を読めない人が多いから口頭で聞いた方がいい」と言われたり、繁華街では地雷によって手足を失った人たちが演奏への投げ銭で収入を得ていたり、滞在が長くなるにつれ、混乱期の影響が今も市民の生活と地続きであることが分かってきた。50年の間に、ここまで国を復興させた人々の強さに敬意を抱くと同時に、まだ「戦後」なのだということを強く実感した。
翻って日本では、昨年戦後80年を迎えた。社会で戦争の影を感じることはそう多くはない。しかし、90歳になる私の祖父は空襲で家族を全員失っている。先日、病院に見舞いに行ったとき、祖父は「お母さんに会いたくて寂しい」とぽつりとつぶやいていた。私自身も戦争で曾祖父母を失った当事者になる。戦争がもたらす喪失に、終わりなどない。
今この瞬間も、理不尽な理由によって、人の手によって人の命が奪われている。第二次世界大戦を経てもなおカンボジアの内戦が起きたように、争いは絶えることなく、私たちの日常を脅かしている。そして、今、ウクライナ・ロシア、イスラエル・ガザ、中東。情勢は悪化する一方だ。
私はやり場のない怒りに襲われ、先日、梅田駅で平和を訴えるスタンディングに参加した。テレビでは「市民団体が…」などと報じられていたが、私は1人で参加したのであって、団体に所属したという認識は全くない。ただ、大きな怒りに突き動かされ、戦争をやめよという信念があったのみである。
悔しいと思う。何もできずに今日も人が殺されていくことも、でもその現地に飛ぶこともできず人を救う能力もなく日常を送らねばならぬことも悔しい。カンボジア内戦も含め、残虐な行為の全貌は、いつもすべてが終わった後に分かる。稚拙な文章ではあるが、せめて私がこうやって体験と思いを共有することで、一人でも多くの人が受け取り、考えるきっかけになればいいなと思う。
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