ORGEL Column

2026年9月23日

有害な男性たちの空間

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担当:レイ
レイ

 「男性」として生まれて社会に出ると「男の絆」という親密なつながりを基盤とする様々なホモソーシャル空間に所属することがある。その中で共有される「男らしさ」というものの基準は多種多様だが、男性たちはそれを中心にお互いを認め合い、絆を深めている。

 「男の絆」によって作られたこの空間はまた、「気持ちの悪い」空間である。そこには女性嫌悪が当たり前のように根付いており、男性同士が経験を共有してお互いの価値を高めるための「ネタ」として「女性」が語られる。もちろん男性として生きている私自身もそのような空間と無縁であったわけではないし、振り返ればそこで生じうる加害性に全く気付かず、それによって生じうる暴力に意図せずとも加担していたと思う。「青春」だとか「若気の至り」だとかそんな言葉で正当化できるものではないし、これを機に反省したい。

 その上で振り返ればホモソーシャルな空間における「男の絆」は女性に対する性的な評価としての「下ネタ」を共有することによって結ばれ、それが「男性」としての価値を高め合うための材料として機能していたように感じる。例えば同じ授業を受けている女性について会話をする時に「恋愛対象として見れるか」という評価基準とは別に「性的に見れるか」という評価基準があった。そこには女性に対する好意や尊敬など存在せず、単に自分の性欲を満たすための対象となりうるかどうかで女性の価値が判断されていた。「好きじゃ無いけどセックスはできる」とはよく聞いたものだ。あるいは自分が女性の友人や知り合いと遊びに行ったことを話すとよく聞かれたのが「その後セックスをしたか」であった。一緒に食べたあのご飯が美味しかった、一緒に行ったこの場所が綺麗だった、ということよりもそういう話に重点が置かれ、それが一番盛り上がっていた。そして一番辛いなと思ったのが、いわゆる「経験人数」の話である。ホモソーシャルな空間では自分が性行為をしたことのある女性の人数というのが男性としての価値を高めているようであった。逆に「経験人数」が全く無ければ「童貞」という嘲笑いのレッテルが貼られ、それが「男性として恥ずかしいこと」と認識される。こうして女性は性的な眼差しによって評価され、また男性たちの価値を認め合い、またそれを競い合うための「数」として捉えられる。

 ユダヤ=キリスト教が誕生した古代パレスチナの男性たちもおそらく同じような状況に直面していたのだろう。イエス・キリストによる山上の説教を記録した新訳聖書のマタイによる福音書には次のように書かれている:

 「だれでも、情欲をいだいて女を見るものは、心の中ですでに姦淫をしたのである[マタイ5:28]」

 まさに現在で言う「男性のまなざし(male gaze)」を先立って問題視しているこの教えは旧約聖書の出エジプト記において神が人間に与えた律法「十戒」の第6条「姦淫をしてはならない[出エジプト記20:14]」を基盤としており、イエス・キリストは物理的な性暴力の発生に先立つ意識の側面から「姦淫」を問題視した。そして彼の説教は次のように続く:

 「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい[マタイ5:29]」

 「もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい[マタイ5:30]」

 彼はもちろん本当に目をくり抜いたり手を切り落としたりしろと言っているわけではなく、「罪」に対して無慈悲に対処するべきだと言っているのである。ここではイエス・キリストの教えを取り上げたが、キリスト教徒であろうとなかろうと女性を「いやらしい目で見る」ことや女性に対して「手を出す」ことが「男性としての価値」として賞賛されるようなホモソーシャル空間が有害であることは明らかであり、それがエスカレートすることによって加害者にならないためには意識や行動に注意を向け、それを誘発させるような人間関係などを断ち切ることが重要であると考えた。

※サムネイル画像は、ヤン・ブリューゲル一世の「山上の説教」