ORGEL Column

2025年4月28日

ノンバイナリーとして生きること

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担当:Curtis
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 ノンバイナリーとして生きることは、日常生活がいかにジェンダー化されているかを、最も直接的に実感できる視座であると常に感じている。自身の生活においても、時に笑うに笑えず、時に大きな勇気を振り絞らなければならない出来事が数多く存在する。 

 ノンバイナリー当事者、特に積極的に発信を行うアクティビストたちは、ノンバイナリーとはいかなる人称代名詞を用いることもでき、いかなるスタイルで装うこともできるとよく語る。簡潔に言えば、「自分がどう在るかが、ノンバイナリーの在り方そのものである」ということである。しかしながら、なお直面せざるを得ない現実がある。それは、周囲の世界におけるノンバイナリーへの認識不足である。他者が自らを「女性」と語るとき、あるいは「男性」と語るとき、誰も「女性とは何か」「男性とは何か」を問いただすことはない。だが、自分が「女性でも男性でもない、ノンバイナリーであり、Agenderである」と伝えた瞬間、多くの場合、相手は困惑の表情を浮かべるのである。このような状況下において、自分は比較的中性的な、あるいは社会から割り当てられた性別や性の生物学的特徴(sex)に期待されるジェンダー表現から逸脱した装いを選ぶことが、相手に男女二元の枠組みでラベリングされることを阻害する、より効果的な方法であると感じるようになった。 

 しかし、このような考えを持ちながら生活していても、日常においてはさまざまな問題に直面する。その中には、思わず苦笑せざるを得ないものもあれば、恐怖や苦痛を伴うものも存在する。最も基本的な問題の一つは、呼称に関するものである。世界中の多くの国・地域において、初対面の相手に対して性別を示唆する呼称を用いることは、ごく一般的な行為である。たとえば、日本では「兄ちゃん」「姉ちゃん」といった親しみを込めた呼び方が存在する。中国においても、営業職の人々が客に対して「美女」「帅哥(イケメン)」と呼びかけることがよくある。これらの呼称は、相手に好印象を与えることを意図しており、悪意を含むものではない。しかし、ノンバイナリーの立場からすれば、こうした呼びかけを耳にするたびに心がざわつき、違和感を覚える。特に、相手が自分の外見から性別を推測し、それに基づいて呼称を選んでいることを意識させられる場面では、その違和感はいっそう強まる。苦笑するしかない経験の一つとして、中国でスーパーに立ち寄った際、わずか五分の間に異なる店員から二度「美女」と呼ばれ、一度「帅哥」と呼ばれたことがある。このような出来事は、他のさまざまな場所でも数えきれないほど経験してきた。 

 また、自分の外見によって女性と認識され、「こちらのレディ(Ms.)」と呼ばれたにもかかわらず、ひとたび声を発した途端、相手が慌てて「あっ、すみません、失礼しました、こちらの男性(Mr.)」と言い直す、という場面にも幾度となく遭遇した。わずか声だけで、容易く社会的に割り当てられた性別に押し戻されるその瞬間には、いつも複雑な感情が湧き上がる。 

 さらに煩雑な問題として、外出先でのトイレ利用が挙げられる。日本で生活する中では、多くの施設に多目的トイレが設置されているが、中国においても高級ショッピングモールや鉄道駅、空港などでは多目的あるいはバリアフリートイレが整備されつつある。しかし、それでもなお、男・女の二択のトイレしか存在しない場所も数多く存在する。自分の外見は通常比較的中性的であり、また、割り当てられた性別に対して持たれるステレオタイプとは異なるため、実際、多くの人々が他者の性別を判断する際、顔立ちや髪型といった表面的な情報だけを手がかりにしていることを痛感させられる。そのため、割り当てられた性別に対応するトイレに入ろうとするたびに、誇張なしに、周囲の人々が驚いた表情を浮かべる光景に出くわす。中には、扉の前で一旦後退し、自分がトイレを間違えたのではないかと確認する者もいれば、わざわざ入室後にこちらに向かって「間違えていますよ」と声をかけてくる者もいる。このような経験を繰り返すうちに、男女別トイレしかない場合には、極力トイレを利用しない選択をするようになった。どうしても利用が必要な場合には、周囲に誰もいないことを確認した上で一気に中に入るか、あるいは外見により近い側のトイレを選択することもある。他人の驚愕の視線、異常者を見るような目線、そして混雑するトイレの前で焦りながら待つあの張り詰めた空気──これらすべてに、すでに心底うんざりしている。 

 ノンバイナリーとして生活する中で直面する困難は、これだけにとどまらない。たとえば、フランス語のように言語そのものにジェンダー化された表現が組み込まれている場合、その使用においても無数の葛藤が生じる。さらに、各種書類や申請フォームにおいて、性別欄が「男性」または「女性」の二択しか用意されていない場合にも、同様の困難が立ちはだかる。このような経験をしているのは、自分一人ではない。世界中に、似たような窮地に置かれている人々が数え切れないほど存在する。だからこそ、常に問い続けざるを得ないのである。 

 そもそも、なぜ、人は他者の外見から性別を推測しなければならないのか。

 なぜ、ジェンダー化された呼称を用いなければ、人と人との間で普通のコミュニケーションを成立させることができないと思い込んでいるのか。

 この現実は、ノンバイナリーとして生きる自分にとって、時に戸惑いを生み、時に疲弊をもたらすものである。しかし同時に、それでもなお、自分の存在そのものを通じて、世界のジェンダー化の構造に小さな揺さぶりをかけ続けたいと強く願っている。