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2025年9月23日
担当:あいり
こんにちは。ここまで辿り着いてくださり、ありがとうございます。本当は自分とフェミニズムの出会いについて書こうと思ったのですが、まとまらず長くなりすぎたのでその中の一部である「特権」の意識について書こうと思います。
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自分はシスジェンダー女性として生きる中で、様々な不当な扱いや嫌な思いを経験してきた。もちろんそれらの経験からフェミニズムに共感したという側面もあるが、自分のフェミニストとしての意識には、特権性への気づきという側面もある。
特権というのは、マジョリティの属性を持っていることで、当たり前に享受できている権利のことである。言い換えると、マジョリティである自分たちは「当たり前」だと思っているのに、マイノリティの属性を持つ人々には与えられていない何かのことだ。
特権に気づくというのは、いろんな人がよく口にする「当たり前に感謝しよう」というスローガンの1歩先、「自分には当たり前なことが、当たり前ではない人たちのことを考え、それがなぜなのかを考える」ということに近い。
例えば、私は異性愛者であるが、恋人と自分の未来の話を考える時に、「当たり前」に結婚を選択肢として考えることができる。しかし、恋人が同性であるだけで日本においては結婚という選択肢はなぜか無くなってしまう。そしてそのことで、婚姻している男女が当たり前に享受しているあらゆる権利(国の制度上のものから日常における些細なものまで)が受けられなくなる。
また、自分が外出先でトイレを利用する時に、周りの目を気にしたり、不安な思いをすることなく、ごく当たり前に女性用のトイレを選択して利用することができるのは、そうでない人のことを考えるとやはり「特権」であると思う。
あるいは道や建造物のちょっとした段差やエレベーターがない建物なども、自分は特に考えることなく歩いているが、体が不自由な人にとっては大きな障壁となる。そのために利用できない建物やサービスが生まれる。
そんなことまで考えてられない、自分で選んだ人生なんだから、と思うかもしれない。でも、マジョリティとしての生き方だって、決して自分で選んだわけではない。たまたま自分の性に悩むことなく生きてこられて、たまたま健常な身体をもって生きてこられただけだ。そこに人としての違いは何もないはずだ。
このように考えていくと、普段私たちは色々な当たり前を享受しており、その裏では色々な不当な扱いをされている人々がいるのだ。その背景には、それを可能にしている社会構造がある。
フェミニズム運動というのは、全ての人が生きづらくない社会を作っていくために、この世界をマジョリティだけのものにしている規範や制度に声を上げる運動であると私は考えている。
それは、「弱い人」を「助ける」ようなものではない。繋がり、分かち合い、声を上げ、声を拾う実践の連続である。
社会は発展してきたはずなのに、なぜかどんどん生きるのが難しくなっている。
SNSでは様々な怒りの声が飛び交い、選挙では堂々と外国人排除が主張され、ガザでは無実の市民が大量に殺されている。
私たちが見ないで済んでいたものに目を向けることは辛く、苦しい。自分たちが差別している側にいるということを自覚するのは居心地が悪い。
それでも、その辛さや苦しさ、居心地の悪さに向き合うこと。決して傷のない立場から手を差し伸べるのではなく、一緒になって傷つき、苦しみもがくこと。そこから一筋の抵抗の光を生み出すこと。
私は、そういうことを大切にしたいと思う。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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