Business
目次 Index

チャンスが訪れればリスクを考えずに飛びつくことが、キャリアアップの秘訣

これまで激動の時代だと言われることは多くありましたが、時代の変化のスピードもひと昔前とは比べられないものとなりました。その根底にあるのがグローバル化です。村上先生に、今の社会状況をどう捉えているか尋ねたところ、「グローバル化自体は必然的な流れで、止めようと思っても止められるものではない」と断言されました。


「地球のある一箇所で起こったことが、一気に全世界へと広がるようになった今、グローバル化が引き起こすさまざまな問題を、未然に防ぐというより、いかに処理して対応するか考える方が現実的です。そもそも国境というものがいまだに存在していることが、ある種、不自然なことなのかもしれません。しかし考えようによっては、生まれた国に生涯、帰属する必要がなくなってきたともいえます。人生でやってみたいこと、やり遂げたいことを追求していくうえで、生まれた国にとどまることが手枷足枷になるのはよろしくない。細々とした手続きは必要ながらも、自分の人生の目的を達成するために、さまざまな国へと移動可能になったのは、グローバル化の良いところだと思います」

murakami_geogle_resize

村上先生は世界的なグローバル企業である
Google米国本社副社長として時代の変化を肌で感じてきた

そう語る村上先生自身、二つ返事でアメリカへ転勤した経歴があります。かつてアメリカを代表するコンピュータ企業の日本法人、DEC(Digital Equipment Corporation)Japanに勤めていたときのことです。


「営業職としてDEC日本支社に入った直後の1982年、当時の通産省、今の経産省が人工知能コンピュータの開発を目的とした『第五世代コンピュータ・プロジェクト』を立ち上げました。アメリカにおける人工知能の研究に使われていたのがDECのコンピュータだったため、日本支社にサポート要請があり、やりたい奴はいるかと訊かれて即座に手を挙げ、担当になりました。その功績が認められ、アメリカ本社の人工知能技術センターで働いてみないかと声をかけてもらえたので、家族を巻き込んですぐさま渡米したのです」

チャンスが巡ってくれば、リスクのことは考えず“脳天気に飛びつく”というのが村上流。これまでの実績は、「気楽に動いてきた結果」だと笑いますが、その判断基準はどこにあったのでしょう。


「今の自分に何ができるか、何ができないかを、頭の中でリスト化していたんですよ。そうすると、やりたいのにできないことに対し、何が足りないかも見えてきます。そしていざ、できないことリストをできることリストに変えられるチャンスが来たら、一も二もなくつかみに行く。自分の夢に向かうために、身につけてないことを埋めるキャリアを狙っていくわけです。私は業界で“ツキの村上”と呼ばれていましたが、こういった行動原理も、運を味方につけられた要因でしょうね」

murakami_america

 アメリカへ移住した当時の村上先生

1日ひとつの知識を得れば、10年で3,000もの知識を吸収できる

「できないこと」を「できること」に変えていく。その指針が顕著に見られるのは、人工知能技術センターに5年ほど勤めたときのことです。

「アメリカ本社からグリーンカード(永住権)を取ってあげようと言われたんですが、断わりました。同社で出世していたのは、MBA=ビジネススクールのマスターディグリー(修士)を取っていた人たち。私自身は、日本のことがよくわかっていて、下手クソながらも英語ができて、日本との間をうまくブリッジできる人材だったから、置いておくほうが便利に使えると判断されたに過ぎません。一方、日本DECからは、帰ってきたら取締役マーケティング本部長を任せたいと言われたんです。経営という項目は、できないことリストのなかの一つ。子会社といえども『鶏口となるとも牛後となるなかれ、牛の尻尾になるより鶏の頭になったほうがいい』と考え、帰国しました」

しかし時は1980年代末、バブル景気が終焉を迎える頃。希望退職者を募ることも、未経験だった経営陣の責務に含まれてしまいます。それをまっとうするにあたっても、村上先生なりの哲学がありました。

「会社のなかでの役割分担は違えども、人間としては平等だという信念がありました。“希望退職”というきれいな言葉で取り繕っても、要はリストラです。『次の仕事を探すまでの期間、自身や家族の生活を支えていくにあたり、規定の退職金では数カ月しかもちません。会社を去っていただく方には、なるべく手厚い待遇を』と本社に掛け合いました。

その後、ヘッドハンティングにより、アメリカのソフトウェア企業、Informix Corporation日本法人の代表取締役に就任。会社全体に責任をもつポジションが「できないことリスト」にあったがゆえの即断でした。その後も米国企業による日本子会社の代表取締役を歴任していきますが、人員整理の苦悩は続きました。

『退職金規程に対し、プラス6カ月分ぐらいは出せ』と本社に要求していました。それが今まで社長である自分を支えてくれた社員の方々に対する、せめてもの恩返しだろうと。日本のトップであるにもかかわらず、労働組合の委員長みたいな動きをしていたため、米国の本社からは『ノリオはユニオンの代表みたいなことを言うなぁ』と言われたこともあります()。しかし交渉は諦めず、間をとってプラス4カ月で手を打つかといった具合に粘り、社員の方々には申し訳ないですが、希望退職に応じていただく形を取っていました」

スキルはもちろん、人望なくして経営者は務まらないというのがよくわかるエピソードです。華々しい経歴をもつ村上先生ですが、キャリアを磨くために意識的に行っていたことはあるのでしょうか。尋ねてみると、答えはかなりシンプルなものでした。

「さまざまな仕事の場面で、自分の知らない言葉に出合いますよね。それをその日のうちに理解することを、新入社員時代から第一に心がけていました。当時はインターネットもなかったので、駅前の大きな書店でリサーチ。該当する話を解説している、なるべく図解が多くて文字の大きな薄い本を買って、一知半解、ざっくり理解するようにしていました。これって馬鹿にできず、11知識だったとしても1年で300知識ぐらい、10年続ければ3,000知識、新しいことを吸収できますよね。継続は力なりです。それがその後の人生、いろんな場面で役立っていますし、今でも何かわからないことはすぐ調べるのが習慣になっています」

murakami_bookstand_resize

今も村上先生の書斎には、さまざまなジャンルの書籍が山積みになっている

 

人間いつかはどうせ死ぬのだから「波乱万丈で面白かった」と振り返れる人生に

2003年、村上先生がGoogleの日本法人社長を務めたのも、ヘッドハンティングによるものでした。当時まだ10人ほどだったという同社の経営を引き受けたのも、まさに「やってみたいこと=AI」だったに他なりません。

「入社前、当時二十代だった創業者二人に対面して最初に言われたのは、『パソコンの前に腰かけたら、今知りたいと思っていることが自動的に表示される仕組みを人工知能でつくる』ということでした。そんな夢のようなこと、できるわけがないと思われて当然の時代です。すでに私は55歳を迎えていたので、おそらくこれが最後の仕事になるだろうと思いましたが、『必ず実現させる』という彼らの強い意志を知り、大喜びでタッグを組みました」

村上先生は米国本社の副社長も兼任しましたが、本社もまだまだ小さな会社でした。しかし人工知能をライフワークに据えていた村上先生にとって、彼らの野望は即座に惹かれるほど魅力的だったといいます。そこからあれよあれよという間に大企業となったGoogle社。入ったときから会社が大きくなる予感はあったのでしょうか。

murakami_geogle2_resize

Google日本法人のオフィスで撮影した一枚

「とんでもない会社になると予想して入ったわけじゃありません。ただ、今でこそ多くの企業が掲げているミッションステートメントを明確に打ち出し、壮大な目標を設定しているところに他社との違いを感じました。その指針のなかに、『楽しくなければ仕事じゃない』といったことが含まれていたのも、当時としては画期的でした」


そこから30年弱が経過した現在、彼らの野望は達成されたといっても過言ではありません。2023年、76歳になった村上先生ですが、座右の銘としているのは「我等いつも新鮮な旅人、遠くまで行くんだ!」という言葉です。

 

「ネガティブな意味ではなく、人間はどうせ誰しも死ぬんですから、死ぬときに『平穏無事だったけれども、つまらん人生だった』と思うより、『波瀾万丈雨あられ、家族に迷惑をかけたかもしれないが、面白い人生だったな』と思えるほうがいいでしょう。皆さんにも、そういう人生を歩んでほしい。そうすれば世の中、もっと面白くなるでしょう。チャンスだと思えることが舞い込んできたら、ぜひ勇気をふるって、全力でつかみにいってください」

プロフィール

murakami_prof
都市経営研究科  教授
村上 憲郎

都市経営研究科 都市経営専攻 教授。

京都大学工学部卒業。日立電子株式会社でエンジニア、DECDigital Equipment CorporationJapanで営業職として活躍し、DEC 米国本社の人工知能技術センターにも約5年間勤務。帰国後、DEC Japanでマーケティング担当取締役を務めた後、ICT系米国企業の日本子会社の代表取締役を歴任。2003年、Google米国本社副社長兼 Google Japan 代表取締役社長に。その後、名誉会長を務め、2011年に退任し、村上憲郎事務所を開設。2018年より大阪市立大学(現 公立大学)の現職に。専門は人工知能。著書に『一生食べられる働き方』(PHP新書)、『村上式シンプル仕事術』(ダイヤモンド社)『クオンタム思考』(日経BP 社)『量子コンピュータを理解するための量子力学超入門』(悟空出版)など多数。
研究者詳細

※所属は掲載当時

おすすめ記事

24.04.11

少子高齢化時代の都市と暮らしのあり方とは?令和時代のマンション問題に迫る

Social

法学部法学科 准教授 吉原 知志 

24.02.07

被災者をワンストップで個別に支援する、「災害ケースマネジメント」の必要性とは

Social

文学研究科 准教授 菅野 拓 

24.03.28

農作物の収穫量を左右する栄養素その吸収と感知のメカニズム

Nature

農学研究科 応用生物科学専攻 教授 髙野 順平 

記事を探す