レポート

2026年8月25日

第196回サロンde人権 レポート

戦後民主主義の歴史性を考える - 占領期放送劇「新しい道」、冷戦リベラリズム、人権

   
2026年5月20日 第196回サロンde人権 ソウル大学日本研究所・大阪公立大学人権問題研究センター交流事業
ソウル大学日本研究所 助教授 鄭 知喜(チョン チヒ)先生のご報告についてのレポートです。

 人権問題研究センターの「サロンde人権」では毎年1回、学術交流のかたちで韓国・ソウル大学日本研究所の研究者を招く報告会を開催しています。今回は、鄭 知喜(チョン チヒ)助教授においでいただき、「戦後民主主義の歴史性を考える 占領期放送劇『新しい道』、冷戦リベラリズム、人権」を報告していただきました。

 鄭先生の研究関心は東アジアで大衆民主主義社会が現れた20世紀の初頭から現代にかけての、大衆と日常、そして政治との絡み合いと力学によって提起されてきた可能性と課題についての社会文化史にあります。戦前から戦後までを連続した「貫戦期」として設定し、戦前から占領期にかけてのラジオ放送への聴衆の参加、帝国臣民と戦後市民としての主体化について博士論文を執筆されました。その後は、空間的な枠組みをさらに広げ、ラジオ聴衆と帝国への参加、その背景にあるラジオの放送網について研究されています。

鄭先生お写真 近年、世界的な自由民主主義の危機が指摘され、それは韓国、米国や日本も例外ではありません。民主主義社会に関する日韓の認識のすれ違いはとても大きく、その理解のために、グローバルな冷戦と絡み合う歴史という観点から、民主主義の内実を、グローバルな冷戦リベラリズムの文脈で歴史化する作業が必要ではないかと考えています。その重要な手がかりとなるのが、教科書『民主主義』とNHKラジオドラマ『新しい道』です。『民主主義』はGHQと文部省、日本の学者やジャーナリストが協力して制作した戦後初の日米合作の社会科教科書で、1948年から1953年まで中学・高校で使用されました。戦後民主主義の象徴的テキストとして高く評価され、大江健三郎や高史明、西尾幹二らにも影響を与えたと言われています。復刻版が繰り返し出版されていることからも、民主主義の原点を学ぶ書として読み継がれていることが分かります。

 この教科書をもとに制作されたのが、NHKラジオドラマ『新しい道』です。1949年から1950年にかけて放送され、のちに映画『奴隷の街』として映画化されました。主人公の町田洋介はシベリア抑留から帰国した元兵士で、民主主義に懐疑的で混乱した状態から、恩師の河野先生との対話や暴力団ボス村井との対決を通じて民主主義の価値を学び、人権と法の支配を重んじる人物へと成長していく過程が描かれます。作品は、民主主義を「独裁の反対」と位置づけ、自由、個人の尊厳、選挙、法による統治を中心的価値として描いてもいます。

 

 しかし、この作品群が制作された時期には占領政策の「逆コース」[i]が進行しており、冷戦の激化にともない、当初の民主化政策は「反共政策」へと比重を移し、CIE(民間情報教育局)は民主主義普及を防共政策の一環として推進しました。『新しい道』もその流れの中で企画され、民主主義の敵として暴力団や封建的権威が描かれる一方、自由主義的・反全体主義的な価値観が強調されました。放送開始当初は「政府の宣伝」「反共プロパガンダ」との批判も多かったものの、後半になるにつれて支持が増え、とくに若い世代に好評を博しました。取材にもとづく現実の事件を題材にしたことによる臨場感があったことに加え、同時進行的に続いた大規模なレッドパージによって多くの聴取者が作品を現実の社会と結び付けて受け止めました。

 しかし、鄭先生は、この作品が示した人権概念には限界もあったと指摘しています。主人公の洋介は抑留帰還者として差別や就職難に直面しますが、それらは人権問題として扱われず、個人の努力や再適応の問題としてのみ処理されます。つまり、作品における人権は「独裁や強制からの自由」に重点が置かれ、社会的差別や生活保障といった視点はほとんど含まれていませんでした。こうした特徴は、戦後日本で普及した民主主義が冷戦期のリベラリズムの影響を強く受けていたことを示しており、その受容の歴史と限界を考える上で重要な知見であると言えます。

 

 私たちにとって民主主義は普遍的価値なのでしょうか。複雑さを増す現代において、戦後民主主義のもつ歴史性から学び取れるものは何か。この問いを出発点とし、大阪公立大学の研究者を交えて、盛んな意見交流がなされました。

[i] 占領が始まった当初、GHQの政策の柱は「再教育」「非軍事化」「民主化」だったが、日本経済の復興や反共対策がもっとも重要になるという、占領政策の逆方向への転換の始まりを「逆コース」と呼ぶ。