脳の“守護者”が“破壊者”に変貌する謎に挑む
アルツハイマー病をはじめとする認知症が、脳の中でどのように進行していくのか。その未知なる病態メカニズムの深部への理解が、樋口先生の研究室が挑み続けるテーマです。
認知症の脳内ではアミロイドβ、タウ、αシヌクレインなどの病的タンパク質が異常な塊を形成しながら蓄積することが、疾患の発症や進行に深く関与します。先生はこの病態に対して、独自の視点でアプローチを試みています。
「私たちは、加齢に伴い炎症と細胞老化が連動して病気が進む『セノインフラメ-ション』という概念を提唱しています。特に脳では病的タンパク質の沈着、炎症、細胞老化の三者が三つ巴となって進展する『脳内セノインフラメーション』が、認知症病態の本質と考えています。本来、脳の環境を守る“守護者”として働いているグリア細胞などが、何らかのきっかけで病態を悪化させる“破壊者”へとガラリと変容し、『脳内セノインフラメーション』を加速します。このスイッチがどこで、なぜ入るのか、そのメカニズムの解明に取り組んでいます」
特に、脳のインターフェースである血管とその周囲の細胞のダイナミックな変化が、病気の進行に大きな影響を与えていることがわかってきたと先生は言います。
「現在はモデル動物を使い、脳血管周辺の変化を手がかりに、セノインフラメーションを制御する“鍵”となる分子を特定しようとしています。これが突き止められれば、認知症の超早期診断や、進行を根本から抑える新しい治療法の創出につながります」

脳内を視覚化するPETトレーサーの開発
メカニズムの解明と並行し、研究室では「今、脳の中で何が起きているか」を外から捉える技術開発にも挑んでいます。その一つが、量子科学技術研究開発機構(QST)と連携して進めている、新しいPET(ポジトロン断層撮影)トレーサーの開発です。
「認知症を正しく治療・予防するためには、脳内の病的タンパク質の蓄積や神経炎症の広がりを、生きたまま正確に視覚化することが欠かせません。超早期診断や、患者さんごとに適した治療タイミングを見極めるための新しいトレーサーは必要不可欠です」
この取り組みは研究室内にとどまらず、製薬企業や全国の医療機関・研究機関と強力に連携しながら、臨床試験や実用化、さらには新しい治療薬の開発支援へと大きく広がっています。
多くの人が手軽に検査を受けられるよう、血液などの体液を用いたバイオマーカーの開発でも世界的な成果を上げています。これまでに研究室では、血液中のタウタンパク質やα-シヌクレインといった原因物質を測定できるシステムを世界に先駆けて開発してきた実績を持ちます。
「私たちの強みは『PETによる脳内画像の可視化』と『体液バイオマーカー開発』が完全に連動している点にあります。PET画像で脳内の状態がはっきりとわかっている患者さんの血液などの試料を分析できるため、開発したバイオマーカーがどれくらい正確なのかを、どこよりも高精度に検証できるのです」
他施設にはない強みを活かし、今後はさらに他項目にわたる血液バイオマーカーの開発・検証を進めていきます。
分子レベルの基礎研究から、画像診断技術、そして手軽な血液検査まで――。点と点をつなぎ、一貫したアプローチで認知症に立ち向かう姿勢が、樋口先生が率いる研究室の何よりの特徴です。
「研究室全体で、基礎的な大発見から臨床応用・実用化までを一気通貫で推進しています。目指すのは、誰もが健やかに年齢を重ねられる健康寿命の延伸、そして認知症の克服です。これからも革新的な診断技術を創出し、世界に貢献していきたいですね」

医師としての葛藤から始まった認知症の基礎研究
今や認知症研究をリードする樋口先生ですが、その原点は1980年代後半、老年内科の医師として手探りで診療にあたっていた日々にあります。
「正確な診断法や治療薬がない当時、認知症根絶の難しさを痛感し、臨床から基礎研究の道へと舵を切りました」
先生はまず、脳内の病態を再現するモデル動物を作製。それを基に、脳内のタンパク質の“ゴミ”を可視化する画期的な「画像診断薬」の開発に成功しました。2017年には複数の製薬企業によるアライアンス(連携組織)を立ち上げ、画像技術を治療薬開発の評価システムとして活用する体制を構築。研究は着実に実用化へと向かっていきました。
「しかし、精密な画像検査(PET検査)は非常に高額で、一般の検診として使うには限界があります。そこで私たちは全国の研究ネットワークを構築し、より簡便で安価に脳の状態を確かめることができる『血液検査法』の開発を飛躍的に進めてきました」

大阪長寿で実現したい、最後まで寄り添う枠組み
優れた検査技術を生み出してきた樋口先生ですが、ある限界を感じていたと言います。
「従来の研究所には病院がなく、患者さんとの関わりが薄いという悩みがありました。検査結果を返すだけでなく、患者さんの不安に寄り添い、長期的に関わる場所の必要性を感じていたところ、研究所と病院が併設される『大阪健康長寿医科学センター(大阪長寿)』の新設を知りました」
2027年5月に開設予定の大阪長寿は、病院と研究所、介護老人保健施設が一体となった施設です。研究参加者と長期的に深く関わり、もし病気を発症しても、病院や介護老人保健施設がシームレスに連携し人生の最期までサポートできる体制が整っています。研究所長には樋口先生が就任予定です。
「現在、検査や治療薬・予防法の開発が飛躍的に進んでいます。私たちはこれらの成果を研究や診療の参加者へいち早く届けるため、研究・臨床試験・保険診療のあらゆる段階で今使える選択肢を全て提供し、より適したものを選んで活用できる枠組みを大阪長寿の中で実現したいと考えています」
大阪長寿での先進的な取り組みは2024年11月、内閣府が主導する国家プロジェクト「ムーンショット型研究開発事業」に採択され、認知症の早期発見・早期介入を検証・実用化するための“オールジャパンの軸(拠点)”となりました。
国からの大きな期待を背負うなか、樋口先生は見据える未来をこう語ります。
「私たちの責任は極めて重大です。最終的なミッションは、ここで開発された大阪発の最先端技術や診療の成果を、全国あまねく普及させることです。日本のどこに住んでいても適した医療とケアが受けられる社会の実現を目指します」
ミッション達成のためだけの組織ではなく、人と人との温かい繋がりを大切にしながら、常に新しく良いものを取り入れて柔軟に突き進む。樋口先生たちの挑戦は、認知症医療の未来を着実に塗り替えつつあります。
プロフィール

大阪公立大学大学院医学部附属健康長寿医科学センター研究所 研究所長(予定者)/医学研究科健康長寿医科学講座病因診断科学 教授
博士(医学)。1997年東北大学医学部大学院修了。量子科学技術研究開発機構などで脳画像研究を牽引。2023年より大阪公立大学大学院医学研究科健康長寿医科学講座病因診断科学教授に着任。認知症をはじめとする神経変性疾患の病態解明や、早期診断・治療戦略を専門とする脳科学・医学研究に取り組んでいる。2027年4月より大阪公立大学医学部附属健康長寿医科学センター研究所長就任予定。
※所属は掲載当時