平成23年度 法学部・法学研究科学位記授与式 式辞(2012年3月23日)
法学部長・大学院法学研究科長 野田 昌吾
皆さん、卒業・修了おめでとうございます。
この卒業式に皆さんにいったい何を話そうか、実は1年以上前からときどき考えていました。わたしは去年の4月から法学部長、法学研究科長を務めていますが、本来であれば、この3月末までがその任期でした。つまり、卒業式のことに思いを巡らせるということは、学部長の職務からいよいよ解放される日のことに思いをはせるということを意味していたわけで、わたしは一昨年の12月に学部長に就任することが正式に決まってから、いわば、その日を夢見て、卒業式での式辞について実はあれこれ考えていました。
このように就任する前から最後の仕事について考えていたような毎日が続いていたわけですが、そうしたなか、去年の3月、東日本大震災が起こり、また、それを引き金とする福島の原発事故が起きました。この震災と原発事故への日本社会や日本政治、さらにはメディアの対応を見るなかで、わたし自身、さまざまなことを考えましたが、皆さんとのかかわりでも重要な一つの問題にもあらためてぶつかりました。それは、われわれが行ってきた、あるいは、われわれが行っている教育の意味という問題です。
大阪市立大学法学部は、「人材育成の目的」を定め、パンフレットやホームページなどでも公表しています。皆さんは、市大法学部の人材育成目的がどんなだったか覚えているでしょうか? 見たことがないという人もいるかもしれませんが、そこにはこうあります。
「法学部は、①主体的に問題を発見する能力と、自己の見解を社会に発信する能力を持つ人材を養成すること、②法学的政治的知識を主体的に展開する能力、特に自己の主張を論理的に構成し表現・文章化する能力を持つ人材を養成することを目指しています」。
さらに、①新しい問題に果敢に取り組む知的好奇心、②自分を相対化するための想像力(イマジネーション)と豊かな人間性などが、そのためには必要としています。
初めて聞いたという顔をしている人も多いみたいですが、今日卒業する皆さんは、自分で考えてみて、そうした能力をもった人間になったという感覚があるでしょうか? 自分が大学を卒業したときのことを思い出すと、そのように問われても、心もとない感覚しか持てないと思う人も少なくないと思います。
それはそれでいいんだと思います。こうした能力は、もちろん大学の4年間だけで完成するというものではない。いやそもそも永遠に完成しない人間の生涯的課題といった方がいいかもしれない。内田樹という売れっ子の学者・評論家がいますが、彼もこう言っています。「大学教育は4年間で完了するものではない。そこで学んだことの意味は卒業したあとに事後的に、長い時間をかけて構築されていくものなんです。教育の基本は「自学自習」で、学校でできることは「自学自習するきっかけ」を提供することだけ。大学で教えるのは、自分自身を上空から鳥瞰できるような視座に立つ力、それだけで十分だろうと思います」。
皆さんには、そうした意味で、これからの人生のなかで、さきほど述べた能力を磨いていってほしいと思うのですが、初めの問題に戻って、なぜ、震災と原発事故をきっかけに私が、市大法学部での教育の意味について、あらためて考えることになったのかといえば、先に挙げた法学部の人材育成目標は、実は、言葉の本来の意味における「市民」、すなわち自由で民主的な社会の担い手となる人材を生み出すという教育理念と結びついているからです。
政治はもちろんのこと、われわれもそこに入りますが科学者・研究者も含めて、震災や原発事故への日本社会の対応を見ると、大学は、自由で民主的な社会の担い手となりうる人間を育ててきたのかという問題を自省せずにはおれません。さらに、また、そういうお前ははたしてそういう人間なのかという問いも、もちろん自分自身に突き付けられているように思います。
このようなわたしの問題意識は、この間、深まるばかりです。昨年11月のダブル選挙以後、大阪市と大阪市立大学を取り巻く状況は急展開を見せています。もちろん、個々の具体的な問題については、さまざまな考え方があっていいと思いますし、また、そうあるべきです。わたしが憂慮を深めているのは、われわれの周辺も含めて、問題の単純化と思考停止の両極端しかないような事態になっていることです。「長いものに巻かれろ」的な発想は、政治エリートのなかにも蔓延していますし、また、大学のなかにも実は広がっています。
われわれは、社会を自ら運営し、また、社会の問題を主体的に発見できる人を育てることを目標にしてきました。わたしは、今日卒業する皆さんも、そうした能力を備得ている、少なくともその土台は築かれていると信じています。
社会にある様々な問題は複雑です。単純な白か黒かでは決められません。複雑な問題を複雑なままに捉えて、思考することはもちろん簡単なことではありません。ですから人間はしばしばそれに耐えきれず、問題の単純化へと走ってしまいます。知的にはもちろん、精神的にもきわめて忍耐力を要することですが、皆さんには、粘り強く問題を複雑に考え続けてほしいと思います。これは市民的リテラシーといってもよいと思います。
もう一点、そうした観点からお話したいのは「市民的勇気」です。これは「言うは易く、行いは難い」ものですが、自戒も込めて、この機会に皆さんにお話しておきたいと思います。原発に抗議するさまざまな運動がこの間しばしばとりあげられたりしていますが、これも「市民的勇気」の表れですが、わたしがここで「市民的勇気」という言葉で言いたいのは、そういうことを積極的にしろということでは必ずしもなくて、問題があると思ったなら、意見を言おうということです。これは確かに「勇気」がいることです。主体的に問題を発見できても、自己の見解を正確に発信する能力を持っていても、それだけで発言できるというわけではありません。これは、また別の能力というか、人間の徳性(virtue)です。社会に出ると、いろいろな難しい問題もあると思います。そうしたなかでは「勇気」は一層縮んでしまうかもしれません。でも、皆さんには、市民には「勇気」が必要なんだということだけは少なくとも忘れず、「勇気」を発揮できなくとも、そのことからくる葛藤は持ち続けてほしいと思います。
こんな話をすると「市民とはしんどいな」と思うかもしれません。確かにしんどい。でも、しんどさ、苦しさから安易に逃れ、問題の単純化や思考停止に陥ることは、社会の破壊につながります。複雑に考え続けること、勇気の問題を自覚すること、ともに精神のタフさを要求するものですが、皆さんにはそうした精神的タフさをこれからも養ってほしいと思います。
先日の教授会で、この3月で退職される高田昭正先生が、自分の学生時代を振り返り、われわれは事態の深刻さに憂慮しているが、学生はいつの時代も未来への不安を抱えながらも、常に明るく元気な存在だと思うとお話されていました。私の話は、年長者の視点に強く規定されすぎていたかもしれません。若者である皆さんの特権である楽観的明るさはわれわれの希望でもあります。精神的タフさも何のことはなく、クリアして行ってくれることを強く信じて、私の話を終わりたいと思います。