平成24年度 法学部・法学研究科学位記授与式 式辞(2013年3月21日)

法学部長・大学院法学研究科長 野田 昌吾

皆さん、卒業・修了おめでとうございます。

皆さんはそれぞれ大阪市立大学法学部・法学研究科で、学部であれば4年プラスアルファ、大学院であれば2年ないし3年プラスアルファの間、勉学をはじめとするキャンパス生活をこれまで送ってきたわけです。振り返ってみて大学生活にどのような感想を抱いているでしょうか。どのようなことが思い出されるでしょうか。

きっとさまざまなことが思い起こされると思います。楽しかったこと、辛かったこと、嬉しかったこと、いろいろなことがあったと思います。入学した時の自分と比べて現在の自分はどのように変わったでしょうか。どのようなことを身に付けたと感じているでしょうか。今一つ実感がわかないという人も少なくないと思います。それはそれで無理もないことですし、またそれはそれでいいんだとも思います。

昨年の卒業式でも紹介したのですが、評論家の内田樹という人はある本でこういうことを書いています。「大学教育は4年間で完了するものではない。そこで学んだことの意味は卒業したあとに事後的に、長い時間をかけて構築されていくものなんです」。こういうふうに言っています。さらに続けて、「教育の基本は「自学自習」で、学校でできることは「自学自習するきっかけ」を提供することだけ」だとも言っています。

このような考えからすると、各人にとっての大学教育の意義は、大学で得た「学びのきっかけ」を大学を出てからどう活かすかということにかかっているのだということになってきます。だとすれば、大学生活のなかで自分が何を身に付けたのか現時点でよくわからないということは、その意味で、まったく無理もないことかもしれません。

でも、そのようにいうと、すべての責任を皆さんの方に丸投げするように聞こえるかもしれませんので、もう少しお話しましょう。

大学というところは、内田さんの言うように、そもそも「学びのきっかけ」を与えるところでしかありません。というか、大学というのは、その本質において「学びの方法」を学ぶところであると言ってもいいかもしれません。たしかに、それぞれの授業で習う知識というのは無意味ではありません。しかし、その知識というものの基盤は必ずしも堅固なものではありません。さまざまな学説の対立などについて講義で聴いたこともあるだろうと思いますが、世界の現実をどのように理解するかという点について、さまざまな見解が存在しており、今日の通説が明日の通説である保証はありません。皆さんのお父さんやお母さんが大学時代に習ったことと、皆さんが習ったことはおそらく大きく違っているはずです。

大学というところは、学問をするところです。学問とは、世界の現実を理解しようとする営みです。世界はいかにあるのか、そしてそれはなぜなのかを問う行為が学問です。これは認識にかかわる行為ですから、自分の認識について他者に対して説明しなければなりません。「世界の現実はこうである。なぜならば…」という説明が学問には不可欠です。他者に対する説明が不可欠であるということは、学問という営みが疑問や批判につねに開かれているということです。その意味で、あらゆる説明は仮説であり、暫定的な結論でしかないわけです。先ほど、知識というのはそれほど確かな基盤のうえにないと言ったのも、そういう意味においてです。

出来あいの知識を修得することではなく、学問に不可欠なこうした「態度」を身に付けること。これが大学における教育の意義だと私は思っています。大学で皆さんは、学問に触れることを通じて、世界を認識し、それを他者に対して説明するとともに、他者からの批判にも耳を傾け、自らの認識を反省しなおすという学問に内在する態度の意義を理解したはずです。
このような態度は、学問においてのみ重要な意味を持つのではありません。こうした態度は、社会に出てからも、きわめて重要な意味を持つはずです。どのように自分の主張を論拠だてるか、どのように相手の主張に耳を傾けつつ、何をどのように主張するか。また、そうした態度をとるためには、自分自身や自分の所属する組織について自分の目線ではなく、他者の視線で捉え直す必要があります。まさにこれらは学問的態度にほかなりません。

このような態度はまた、職業生活に限らず、広く社会生活全体にとっても不可欠ではないかと思います。自らの立場を絶対化せず、自らをつねに対話に開こうとする態度は、自立した個人が自由・対等に交わる社会、多様な価値観を持つ人々が共生できる社会をつくるうえで欠かせません。大阪市立大学法学部・法学研究科を卒業した皆さんが、職業生活という狭い意味においてだけではなく、言葉の本来の意味での「社会」の重要な担い手として、ここで培ったものを活かしていってくれることを心より期待しています。

大学というのは、今までお話してきたように、学問すなわち世界の現実を理解しようとする場であり、また、そのためにも自由が何よりも重要な意味を持っている場でもあります。この学問と自由の場であるということに加えて、大学というのは、ひとつのチームであり、カンパニーでもあると思います。その点に関わって、最後に、わたしが素敵だと思った二人の言葉を紹介して、本日卒業する皆さんへのはなむけの言葉に代えたいと思います。いずれも何故かフランス人の言葉で、わたしが勉強しているドイツの人の言葉ではありません。

一つ目は、70年代後半から80年代にかけてラグビーフランス代表の主将として活躍したジャン=ピエール・リーヴという人が昨年、フランスのスター選手チームを引き連れて来日した際のインタビューからです。「あなたにとってラグビーとは」と尋ねられ、彼はこういっています。

――自由。ラグビーは時に戦争になる。でも根底に愛情と友愛がある。人間と人間の行為なのでエネルギーが生まれる。そのエネルギーは自由がなくては生まれない。個人の自由を守る。そこに自分が自分である証明がある。(…)重要なのはラグビーのエスプリ(精神)なのだ。物質にとどまらぬ感情、信じる力、支え合う意思、自分が何者かについて疑う力が必要です。

わたしはすごく素敵な言葉だと思います。自由と支え合う意思、自分を疑う力。わたしは、この彼の言葉になにか大学の精神とつながるものを感じ、先ほどお話したような意味での大学の精神(エスプリ)を皆さんにはいつまでも持ち続けてほしいと思って、フランスラグビーの元英雄リーヴの言葉をまず紹介しました。

二つ目に紹介するのは、2007年に亡くなったモーリス・ベジャールというフランス人のバレエ振付家が、彼の率いるスイスのローザンヌに本拠を置くバレエ団の団員たちにあてた手紙からの引用です。

バレエ団へ 恋しいみんなに呼びかけたい。
バレエ団は個人であり、人の群れではない。
細胞からなる存在で死と再生を繰り返す。
この戦場のおかげで人生が存在する。
君たちの人生は変化し発展する。
去る者、来る者。
バレエ団は素晴らしい冒険を続ける。
浮き沈みもあれば喜びも不安もある。
みんなが恋しい。
私が遠く離れても過去を振り返るな。
やるべきことは未来のための準備だ。
創作に力を注いで
新しい地平線を制覇するのだ。

これは、死を予期した彼が残された団員たちに送った言葉で、みんなが残り、去るのは彼なのですが、皆さんとわれわれとの関係にもどこか通じる気がして紹介しました。大学というのは、このバレエ団のように構成員を絶えず入れ替えつつ冒険を続けるカンパニー、仲間組織だと思います。バレエ団は、決してたんなる人の群れではなく、個人からなるのだというベジャールの言葉は、先に紹介したリーヴの言葉ともいみじくも重なります。ベジャール自身はカンパニーに残る団員に呼びかけているわけですが、私は大学を去る皆さんに彼の言葉をあらためて送りたいと思います。
ちょっと照れくさいですが。

みんなが恋しい。
私が遠く離れても過去を振り返るな。
やるべきことは未来のための準備だ。
創作に力を注いで
新しい地平線を制覇するのだ。

皆さんの前途に期待しています。