平成25年度 法学部・法学研究科学位記授与式 式辞(2014年3月24日)

法学部長・大学院法学研究科長 永井 史男

まずは皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、これまでご子息・ご令嬢の学業を金銭的にも精神的にも支えてこられた保護者の皆様、おめでとうございます。本日法学部・法学研究科からは、一部学生一六七名、二部学生三名、合計一七〇名の卒業生、並びに大学院前期博士課程修了生一名、大学院専門職学位課程修了者四二名を無事送り出すこととなりました。皆さん自身がよくご存知の通り、市大法学部で所定の単位を修得して卒業することは、決して簡単なことではありません。大阪市立大学法学部の教職員を代表して、まずは心よりお祝いの言葉を申し上げたいと思います。
本日をもって皆さんは大学を卒業し、社会に巣立っていかれます。皆さんの門出を祝い、この場を借りて皆さんにはなむけの言葉を贈りたいと思います。
ここにおられる卒業生の皆さんの多くは、所定の四年間で法学部の単位を取得されました。まず振り返っていただきたいのは、そもそも四年前に、皆さんはどのような抱負をもって市大法学部に入学したのか、ということです。少し思い出してください。思い描いたように四年間を過ごすことができましたか。おそらく、そう多くはないでしょう。中にはそんなことはすっかり忘れてしまったという方もおられるかもしれません。当初の希望とは違ったけれども、よい師、よい友、あるいはよい書に巡り合い、新しい目標や生き甲斐を発見することができましたか。自由な思考や人生設計を許されるのは、大学生の特権といって過言ではありません。たとえ初志貫徹できなくとも、納得した学生生活を送ることができたのであれば、そのことに大いなる誇りをもっていただきたいと思います。
また、それとともに、そのような学生生活を金銭的にも精神的にも支えてくださった保護者の方に対して、そして税金を納めている大阪市民の皆さんに対して、感謝の気持ちを忘れないでほしいと思います。たしかに大学進学は半世紀前に比べればごく普通のことになりました。しかし、相対的に安い学費で充実した少人数教育を受けることができた皆さんは、やはり例外的であるといえるでしょう。そのような皆さんには、社会のさまざまな分野において重要な役割を果たすことも期待されています。
もちろん、ここにおられる卒業生の皆さんすべてに、社会のリーダーたれと申し上げているわけではありません。そもそもすべての人がリーダーになりたがれば、社会は到底成り立たないでしょう。多くの皆さんは、リーダーを支える側に立たれるでしょう。しかし、リーダーのいうことに常に唯々諾々(いいだくだく)とするのがよき部下ではありません。「忠誠」と「反逆」という言葉がありますが、それらは決して二律背反の言葉ではありません。「忠誠」を突き詰めて考えれば、リーダーがリーダーとしてきちんとした振る舞いをしていないときには、「反逆」こそが最大の「忠誠」になりうることを、是非心に留めておいていただければと思います。

さて、これから社会に旅立たれる皆さんに対して、一つ残念なことを申し上げなければなりません。それは、大学で学んだことがすぐに社会で役立つというわけではない、ということです。私自身も含め、前に座っておられる他の法学部の先生方も、社会ですぐに役立つ実践的な内容を授業で教えようとされてはこなかったと思います。もちろん科目の性格によって程度の差はありますが、多かれ少なかれ妥当すると思います。今更言うまでもありませんが、社会は常に変化します。長い目で見れば、現在の常識が一〇後、二〇年後には非常識になっているかもしれません。知識や知見というのは、意外に短命で陳腐化しやすいものです。たしかに大学は先端の知識を教えるところであります。必ずしも間違いではありません。しかし、大学で教えようとしていることは、社会や知識が変化する中にあっても、変わりにくい普遍的な原則や価値、たとえば自由、平等、民主主義、人権などに基づいて、新たな課題にどのように立ち向かっていけばよいのか、その思考回路にあります。
「リーガル・マインド」という言葉があります。法学部生であれば誰でも知っている言葉です。しかし、それがいったい何であるのか、明快に説明することは、法学士となられた皆さんにとっても難しいことかもしれません。しかし、一般社会に出たとき、それがいったい何を意味するのか理解されることが早晩きっと訪れるでしょう。さきほどもいったように、法学や政治学においては、いくつかの根本的な原則や価値に基づいて、法律の体系や政治の仕組みが組み立てられています。「リーガル・マインド」とは、普遍的な価値を実現するために法的思考であると言い換えてよいかもしれません。社会にはさまざまな考え方の人がいます。もっぱら経済的効率性や効果を重視する人、自己の利益を実現するために他人の人権を軽視しがちな人など、さまざまな人たちがいます。そうしたとき、法学士である皆さんの果たす役割はとても大きいのです。

ところで、現代の社会ではグローバリゼーションが急速に進行しています。国境の垣根が低くなり、ヒト、モノ、カネ、そして情報が瞬時に伝達されます。このような時代に、根本的な原則や価値が果たしてどの程度意味をもつのか、また、今後ますます急速に変化する社会において、いったいどのような指針に基づいて生きていけばよいのか、少し考えてみる必要がありそうです。ここで、私が尊敬する三人の方の言葉を皆さんに紹介することで、はなむけの言葉に代えたいと思います。
一人目は、福澤諭吉です。改めて紹介するまでもありませんが、近代日本最大の啓蒙思想家で、慶應義塾の創始者でもあります。咸臨丸に乗ってアメリカに行ったり、幕府派遣遣欧使節団の一員としてヨーロッパに行った経験もあります。福澤は大阪とも縁のある人で、緒方洪庵の適塾で塾頭まで務めた蘭学者でもありました。彼の書いた『学問のすすめ』は、明治初期のベストセラーとなった本です。その福澤の主著の一つに、『文明論之概略』という本があります。
の冒頭で、福澤は面白いことを言っています。高遠な議論というのは世の中にとって有害無益にも思えるかもしれないが、決してそうではないと。古来文明の進歩というのは、最初はすべて異端や妄節から始まったとして、経済について論じたアダム・スミスや地動説を唱えたガリレオの例を引いています。つまり、かつての異端妄節は、今の常識であり、昨日の奇説は今日普通に話されていると福澤は述べて、物事の利害特質を論じるには、まずその利害得失の軽重と是非を明らかにする必要がある、つまり議論の基準を定める必要があると述べています。福澤はこのことを明治8年に述べていますが、現在においても妥当する話だと思います。
二人目は、故石井米雄先生です。ここにおられる皆さんの中で、石井先生のことをご存知の方はまずおられないと思いますので、略歴を少しご紹介します。
井先生は世界的な東南アジア研究者で、特にタイの歴史研究、小乗仏教の研究で知られた先生でした。京都大学や上智大学で教鞭をとられ、紫綬褒章や文化功労者にも顕彰された方です。石井先生はまた語学の達人としても知られた方で、英語、タイ語はもとより、ラテン語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、カンボジア語、ビルマ語、インドネシア語、パーリ語、サンスクリット語、中国語など十数か国語を操ることのできた方でした。残念ながら石井先生は数年前に鬼籍に入られましたが、半世紀にわたって数多くの後進研究者を育てられました。私も大学卒業後タイ史研究・東南アジア研究の世界に入り、石井先生の謦咳に接したものの一人です。
石井先生の人生もまた、波瀾万丈と形容するのに相応しい人生でした。実は石井先生は早稲田大学文学部と東京外国語大学タイ語科をいずれも中退し、外務省の専門職員としてタイに赴任されました。今から七〇年前の一九五〇年代半ばのことです。その時、ちょうど本学の理学部におられて、のちに京都大学人文科学研究所に移られ、さらには国立民族学博物館の初代館長に就任された故梅棹忠夫先生の率いる「東南アジア生態学調査隊」に請われて、インドシナ旅行に通訳として同行しました。この時の縁で、石井先生は一九六三年に京都大学に設置された東南アジア研究センターの助教授に招聘されました。「高校卒業」で京大助教授に就任されたことは当時大きな話題になりましたが、三六歳の時に外務省専門職員から職業研究者に転身された点でも注目を浴びました。
さて、その石井先生ですが、一〇年ほど前に人生をこれからスタートする若者向けの本を出版されました。題名は『道は、ひらける』です。そのあとがきで石井先生は、本居宣長が初学者に学問の心得を説いた本の一節を引用されています。「さらば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、思いくづをれて、止むることなかれ」。現代語訳すれば、「才能がないといって、晩学だからといって、時間がないといって、失望して勉強をやめてはいけない」。石井先生は外国語の習得の秘訣は、強い動機をもつことと、かなりの努力を必要とすることを覚悟することと述べられています。大学を卒業したからといって、勉強がこれで終わるわけではありません。しかし、今までのように十分な勉強時間を確保することは困難です。しかし、それを言い訳にはせず、強い動機をもって、勉強を続けていただきたいと思います。
最後の三人目は、濱田庄司です。陶芸にいささかでも関心のある方であれば、濱田の名前を聞いたことがあるかもしれません。濱田は一九五五年の第一回重要無形文化財、いわゆる人間国宝に認定された陶芸家で、三〇歳から栃木県の益子町に移り住み、益子焼を手がけた人物としても知られています。皆さんが生まれるだいぶ以前の、一九七八年に八四歳の生涯を閉じられました。濱田はまた、日本民藝運動にも参画し、柳宗悦(やなぎ・むねよし)、富本健吉、河井寛次郎とも同世代に属します。益子町は関西から遠いので皆さんあまりご存知ないかもしれませんが、倉敷にある大原美術館を訪問されれば、濱田の作品を見ることができます。濱田の仕事の特色を柳(やなぎ)は六点に要約していますが、中でも印象深い指摘は、「美が平易さから来ること、また平易さから生まれる美こそ、一番素直で健全だということ」、「焼物の美が何よりも先ず用途と結びつくことで、初めて正しく現れるのを見逃しはしなかった。いわば焼物を、飾り物から実用品に再び復帰させた」という二点だと思います。濱田の作風はダイナミックで、素朴さの中に力強さがあり、人の目を離しません。私は毎日、益子焼の湯呑茶碗でお茶を飲んでいるほど彼の作風が気に入っています。
さて、濱田を紹介する文章として最もよく知られているのは、「京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」という彼自身の言葉です。ここにあるように、濱田は大正時代から昭和にかけて、益子を拠点としつつも、英国、ヨーロッパ大陸、沖縄、朝鮮半島、大陸中国と海外を旅しました。英国ではイングランド南西部のコーンウォールにあるセント・アイヴスというところで、一九二〇年~二四年にかけてバーナード・リーチと一緒に作陶に専念した時期もありました。
濱田のように一見、日本的と見られている陶芸の分野においても、その背景に濱田の豊かな海外経験が裏打ちされています。とはいえ、濱田の強さは、自分の目で作品の核心を見抜く力にあったと思われます。彼もまた、前述の石井先生と同様、どんなに忙しくても作陶をしているときがもっとも楽しいと言っています。
これら三人には共通する部分があるように思います。それは、自分に素直であること、自由であること、そして楽天的であることです。三名の方はいずれも時代に翻弄された時代を生きてこられました。与えられた条件や時代背景はそれぞれ異なりますが、いずれも見事に生を全うされました。皆さんの前にも、筋書きのないドラマが待ち受けているでしょう。それに対する正解は事前には与えられていません。自分で考えるしかないのです。しかし、皆さんには、どのように考えればよいのか、その精神を体得されているはずです。どうか自分に素直に、自由に、そして逆境にあっても楽天的に生きて欲しいと思います。
最後に、改めて、ご卒業・修了おめでとうございます。