令和元年度 法学部・法学研究科学位記授与式 式辞(2020年3月24日)

法学部長・大学院研究科長 渡邊 賢

法学部・法学研究科の卒業生・修了生の皆さん、卒業おめでとうございます。
また、ご家族の皆様はじめ、卒業生・修了生のみなさんを温かく見守ってこられた皆様には、ご列席を見合わせて頂いたわけではありますが、この場で心からのお祝いを申し上げたく存じます。
卒業式という晴れがましく、またみなさんの人生の中での区切りとして大変重要な儀式を、新型コロナウイルスの猛威によって、規模を縮小して挙行せざるを得なくなったことについて、心から残念に思います。私たち教員も、もう少し時間をかけてしみじみと、これまでのみなさんとの知的な交流を振り返る機会を持ちたかったところです。
しかし、卒業式の規模が縮小されたからといって、みなさんが大阪市立大学法学部・法学研究科において法学と政治学の専門的な勉学を終了したという事実には変わりはありません。大阪市立大学の法学部や法学研究科での勉学には大変厳しいものがあったわけですが、そこでの学問を身につけて、新しい未知の世界へと旅立つことができる日を迎えることができたことを、みなさんは率直に誇りに思っていただきたいと思います。教員もまた、みなさんがこの日を迎えたことをともに喜んでおりますし、またみなさんがここまで積み重ねられた努力に敬意を払っております。みなさんはこれから、新たな社会へと踏み出すことになるわけですが、この機会に少し、私自身のこれまでの経験を踏まえて、少しお話をさせていただきたいと思います。
私自身はこれまで、憲法という領域を中心に、研究と教育を行ってきました。みなさんもご存じのように、憲法は、国家権力の行使が恣意的にならないように、統治の仕組みを整えるとともに、基本的人権を保障することによって、国家権力の行使に枠をはめようとするものです。他の研究領域と同じように、憲法という研究領域もまた非常に広いわけですが、私が研究領域のひとつとしてきたものに、公務員の労働基本権に関する議論があります。
わが国では公務員の労働基本権は法律によって色々な制約を受けており、その制約が憲法に違反するかしないかについて、いくつかの最高裁判所の判決が出ています。もちろんここでその点について講義を展開しようというわけではありませんので、その点はご安心下さい。ここでお話ししたいのは、最高裁判例に現れているものの考え方です。つまり、現在の最高裁判例によれば、労働三権を保障する憲法28条が公務員にもそのまま適用されると、憲法が準備している統治の仕組みの一つである財政民主主義(これは財政のあり方を最終的に決定する権限は国会にある、というものです)や勤務条件法定主義(これは、公務員の勤務条件については法律で定める国会が定める権限をもっている、というものです)と正面衝突するので、公務員には団体交渉権や争議権といった憲法28条の内容となっている権利が保障されない、というのです。
ここでは、憲法上の二つの要請、つまり、労働三権を保障する憲法28条と、財政民主主義・勤務条件法定主義に現れている議会制民主主義の要請とが両立しない、二律背反の関係にあるので、あれかこれかの議論となる、という考え方です。
しかし、最高裁は常にこういった二律背反論に頼った議論ばかりを展開しているわけではありません。例えば、表現の自由とプライバシーの権利はどちらも憲法上のものであるといって構わないと思いますが、表現の自由とプライバシーが対立した場合には、場面場面に応じて2つの権利の調整を行う、という考え方を示しています。
ここで申し上げたいのは、次のようなことです。つまり、このように、何か解決すべき問題があるときには、二律背反である種割り切って勝ち負けを決める、という解決方法と、いくつかの無視できない要請を場面場面で調整しながら解決のあり方を見つけ出していく、という解決方法がありそうです。この2つの解決方法は、一概にどちらが優れているか、ということではないとは思います。しかし、対立する要請を一刀両断で割り切り、優劣を判断して解決策を考えるというやり方よりも、いくつかの無視できない要請を場面ごとに調整していくという解決方法は、社会の中で発生する問題への対応を考えようとするときには、多くの場合、より適切な解決を導き出すものであるのではないか、と考えています。

ただ、対立・競合するいくつかの要請の間で調整を行いながら、場面ごとに解決策を考えるというやり方は、粘着力のある思考を求められるものです。また、調整が場当たり的な、アンフェアなものとならないようにするためには、調整をするときの視点や枠組みをきちんと設定しておくことも必要となります。さらに、調整をするときの視点や枠組みを考えるときに、従来の権威、例えばそれまでの判例や学説、あるいは制度を前提としてそこに固執していたのではうまくいかない、ということが多々あることは、みなさんも法学部や法学研究科での専門的なトレーニング、例えばゼミでの議論の中などでしばしば感じたことではないでしょうか。

この、従来の前提に固執せず、そこから距離を置いて考えてみる、ということに関係して、ここでは二つのことを申し上げておきたいと思います。

一つは、物事を考えるときに前提となっているそれまでの枠組みを見直すときには、様々な視点から検討し直すことが必要となることが多い、ということです。つまり、幅広いコミュニティの人たちから、幅広い指摘を受けながら、検討し直すことが求められる場面も生まれます。そしてこの議論を進めるときには、場合によっては自分の価値観とはかなり異なる観点からの批判や指摘を受けることもあるでしょう。多様な価値観の持ち主が自由に、主体的かつ自律的に議論をするということの重要性は、いうまでもなく、表現の自由の基本的な哲学とつながるものではあります。

しかし、他面で、批判に弱い文化を持っている国、例えばわが国では、批判や改善点の指摘を受けた側は、強い拒否反応を起こして、適切な批判や指摘をなかなか受け入れようとしない、ということがしばしば見受けられます。他方で、こういった社会の中では、批判する側も時として多大なエネルギーを掛けなければならないことがあり、そのことが批判することを萎縮させるケースを生むようにも思います。わが国の最高裁は言論には対抗言論で、という対抗言論の法理を採用していないわけですが、その背景には、存外、わが国の社会が批判に弱い、ということがあるのかもしれません。私自身は、公務員制度との関係でこういった問題意識から、批判を促進することができる制度的な基盤を公務員制度の中で活性化できないか、また活性化させるためにどのような仕組みを組み込むことが考えられるか、という観点から論文を書いたりしたこともあります。私自身の研究はさておき、一般的にいって批判なしには改善はないでしょうから、私たち個人としても、また組織としても、少しでもよい社会にするために、批判を行うことを恐れず、また、批判を受けることをいとわず、どうやったら現状を少しでも改善できるかということに、前向きに、エネルギーを使って頂ければと思います。
もう一つは、現状を改善するというのはどういうことか、ということについてです。おそらくこれから先みなさんが社会の中で実際に生活をすると、色々と息苦しく感じることも出てくるのではないかと思います。そんなときには、そこでどんな問題が発生しているのかを、まずはきちんと理解することが必要です。私が研究者を目指して大学院に入ったときに教員や先輩からうるさくいわれたのは、まず理解する、次に批判しあるいは自分の意見を言う、ということでした。問題を適切に把握した上で、その問題に対して私たち自身はどう対処すべきなのかを考え、さらに、社会はどうあってほしいのか、ということを考えて頂きたいと思います。
このことは、おそらくは法学部の専門的な教育の中でも考えてきたことだと思います。例えば、現在採用されている夫婦同氏制が法の下の平等を定める憲法14条や、家族生活における個人の尊厳と両性の平等を定めた憲法24条に反するかどうかが争われた事例に関する最高裁判決をみなさんも勉強されたことがあるのではないかと思いますが、この夫婦同氏制にはどんな問題があり、その問題への対処として、自分自身だったらどう対処するか、また自分自身は例えば現状の制度の下で婚姻届を出すにしても、社会としてはどうあってほしいのか、といったことを考えながら、夫婦同氏制という制度が適切であり妥当なのかを考える、といった風にして、考えを進めてきたのではないでしょうか。
こうやって、どんな問題があり、その問題に自分自身はどう対処し、他方で社会はどうあってほしいのか、ということを考え続けることは、大きくいえば民主主義社会の一員として、社会で適用されているルールの妥当性を考える上でとても大切なことだと思います。
以上お話ししたことは、みなさんが大阪市立大学法学部や法学研究科で学ばれたことばかりだと思います。その中で私が日頃特に大切ではないかと考えていることを、多少一般化しながら、いわばスナップ・ショット的に抜き出したに過ぎません。私がここで申し上げたことを含め、みなさんは多くのことを大阪市大で学ばれたわけですし、みなさんが大阪市大で学ばれたことは、みなさんのこれからの人生を豊かにするものであることを私は確信しております。
ただ、これからの新しい生活では、考えに考えてもどうしたらよいか分からない状況に直面することもあろうかと思います。そのときには、「風とともに去りぬ」という映画の最後の方の場面で、ヒロインのスカーレットが発した、「明日考えましょ」という言葉を思い出して頂くのもよいかもしれません。映画の中でこの言葉が発せられた文脈はともかくとして、私がこの言葉をここで持ち出すのは、一般的にいえば、考え抜くことはもちろん大切ですが、一端リセットすることもまた同じくらい大切なことだと思うからです。
私自身の経験を申し上げます。研究者の任務の一つは論文を書くことですが、一度書き上げた論文を2~3日くらい寝かせて、もう一度見直すと、自分が書いたものの問題点もみえてくるし、新たな着想を得られることもあるので、私自身は、そういった形で一度リセットすることがしばしばあります。人生の中では、自分の置かれている状況から一度距離を置いてみることも重要なことである、ということを私からみなさんにお伝えしたいと思います。
最後に、繰り返しになりますが、ご卒業おめでとうございます。このことを、教員を代表して申し上げます。皆さんの今後のご活躍を大いに期待していますし、授業を担当してきた教員として、みなさんが、ご卒業後も市大法学部・法学研究科とのつながりを維持して下さったら、大変嬉しく思います。みなさんの今後のご活躍を心から祈念しております。