令和7年度 大阪公立大学法学部・法学研究科学位記授与式 式辞(2026年3月24日)
法学部長・大学院法学研究科長 手塚 洋輔
大学院の課程修了、学部の卒業、おめでとうございます。
本日は会場の関係からご列席いただくことが、できませんでしたが、ご家族をはじめ、ご関係の皆様には、大学を代表して、御礼とお祝いを申し上げます。
さて、みなさんが持っている学位記の色の話を昨年、この場でしました。
数の多い学部生に関してみると、昨年は、赤色の卒業生、つまり大阪市立大学の卒業生が大半で、こうした赤色が多いのも最後、ということを述べました。今年は、その通りに、黒色である大阪公立大学の卒業生が多くを占めていることがわかるでしょう。
とはいっても、こと法学部に関しては、もちろん大学の名前が違うというのはありますが、赤色の大阪市立大学であれ、黒色の大阪公立大学であれ、学んできた中身は変わらず引き継がれている、
といっても過言ではありません。
実際に、法学部カリキュラムの最大の特徴ともいうべきものに、
自由選択制があります。専門科目の90単位をどのように修得するかは、みなさん自身に選択が委ねられるという考え方は、市立大学も公立大学でも変わっていません。
本来、自由選択制の趣旨は、学生が自分の関心にそって、自分自身で決めるというものです。他方で、好き勝手にしたら、ということでもありますから、ある意味で、放任、と紙一重であることも確かでしょう。
振り返ってみて、この仕組みを上手に使えた人もいれば、逆に、脈絡なく科目を履修してしまったなという人もいるかもしれません。ただ、みなさん全員、結果はともかくとして、少なくとも履修登録のときには、果たして自分は、大学まで来て一体何をやりたかったんだろうと思案し、少しのワクワクと共にUNIPA(教務システム)をクリックしたことでしょう。そこでは、この科目をとっておいたほうがいいかなとか、この科目は単位が厳しいからやめておこうかなとか、いろいろと考えを巡らせたのかもしれません。しかし、誰に迷惑をかけるわけでもなく、自分自身で決めたのは、確かでしょう。
実は、そのことこそが大切だ、と、私は考えています。
こうしなきゃいけない、ということではなくて、こうできるかもしれない、という可能性を自分で広げて、自分で決める。この経験を積むということが、自由選択制の隠れた意味です。
そのことを考えているとき、ふと自分自身のことも思い出しました。そういえば私も大学時代、法学部生が普通はとらない科目をとってみようというただそれだけの理由で、教育学部で開講されていた、障害学の授業を履修したことがあります。周りは、みな教育学部生の中にぽつんと一人で、アウェーな環境でしたが、ある日の授業の一コマ、担当教員が次のようなことを言いました。
「きみたちは障害者に光を、と思っているだろう。しかし、それは違う。障害者が光なんだ。」
なんだかすごく驚いたんですね。どういうことかというと、障害を持っている方が何に困っているかを理解することは、この世の中の問題を知ることになる。つまり、障害者の存在こそが、この社会の闇を照らし、社会をよくしていくのだ、との話です。今となっては大変断片的な記憶でしかありませんが、確かにそのような出会いがありました。
この学位記授与式の時間、何を学んだかという手前に、何を学ぼうと決めたのか、ということをぜひ思い起こしてください。案外、自分と向き合った瞬間があったはずで、そのことを大切にしてほしいと思います。
さて次に、大学院生のみなさんは、また違った形で「自由」と向き合ってきたのではないでしょうか。ロースクールのみなさんは、
権利としての自由は学ぶものの、大学院での学び、それ自体に自由を感じることはあまりなく、むしろ不自由だなぁという感覚のほうが強いかもしれません。
司法試験の科目が決まっていて、勉強しなければならない内容が共通にあり、さらに答案の書き方も、カタがあるわけです。
資格試験なので、それは致し方ないのかもしれません。ただ、その先に目を向けると、実務の現場に出れば、社会はどんどん変化し、新しい問題にあふれています。もっと、こんなことができるんじゃないか、と新しいアプローチを考える必要もあります。だとすると、そこには自由の領域が大きく広がっています。
大阪公立大学ロースクールを出たみなさんには、市立大学時代から培われたOB・OGの先輩方に続いて、そうした自由に、果敢に挑戦する人になってほしい、と期待しています。
法学政治学専攻のみなさんは、逆に、大きな自由にたじろいだ、というのが実感としてあるでしょう。修士論文や博士論文を書くときに、自分自身で自由にテーマを選ぶわけですが、この自由がくせものです。
自分勝手好き勝手にやればよいのではもちろんなくて、学問的に新しい知見が出そうな、という不確実な自由なんですね。うまくいくかどうかわからない不確実性に、自分を投げ出して、短くても半年、長いと数年にわたって、そのテーマを探究する、という営みをしてきたわけです。
しかし、モヤモヤしていた何かがつながったり、わかったりした瞬間の快感というのは忘れがたいものです。雲の中から光が差し込んだときのあの瞬間に、私自身、今でも興奮します。
研究とは、こうした不確実な自由の上で行うので、成功すれば自分の功績であり、失敗すれば自分が至らなかった、というやや残酷な側面があります。
こうした、成功は自分のもの、失敗は自分だけの責任、という構造は、自由の裏返しとして確かにありそうです。
このことを学部のみなさんに引きつけると、例えば、授業の選択で失敗したなぁというときも、「そんな授業をとった自分が悪い」ということで処理されがちだったのではないでしょうか。本当は、もっと授業をちゃんと改善してほしい、とみんなで声を上げる勇気を持つべきだったのかもしれません。もし自由のない必修科目だったら、そんな突き上げがありそうですが、自由選択とは、その問題を覆い隠す、という危険もあります。
つまり、先に少し述べた「障害者が光」という話からすると、私たちが直面する、ままならない現実は、見方を変えれば、どこを改善すべきかを教えてくれる光ともいえるのではないでしょうか。
それは、たとえ自分が失敗したとしても「問題に気づき、改善や解決に向けた力」を得られることを意味します。逆に成功したとしても、それは自分自身だけで成し遂げたのではなく、自分が受けた世の中からの恩を返していく、ということでもあります。
みなさんが学んだ杉本キャンパスには、大阪市立大学時代から、
そうした、ままならなさを受け取るアンテナの感度が、確かに息づいています。
このように、まずひとつとして、「こうじゃなきゃいけない」の先にある可能性を自分で広げて、自分自身で決めて引き受けるという「自由」の構えがあります。それと同時に、ままならない現実に直面したときには、自分一人の責任とせずに、連帯して、声を上げ問題を改善し、世の中に返すという「勇気」の構えも忘れてはなりません。
これから生きていく上で大切な、これら2つの構えのいずれも、みなさんは身につけたのではないでしょうか。それが、この杉本キャンパスで、自由のあり方と向き合ってきたからこそなし得た大きな価値です。
これからの活躍を期待します。